3線跡を往く VIII〜遠賀川橋梁〜

Category:レンガスキー コメント(2)

●筑前垣生・底井野
筑前垣生〜中間間も3線だった時がありました。島式ホームの筑前垣生駅に立ってみると複線はわかるのだが、もう1線分はどこ?と思われる方がいるでしょう。ホームがある場所にもう1線分があったようなのだ。

筑前垣生駅が開業したのは1935(S10)年4月26日。この時はまだ遠賀川橋りょうのすぐ横にあり、1951(S26)年1月20日に0.3km直方寄り、現在の位置に移転してきました。3線撤去は1954(S29)年8月31日とされていますが、移転時には既に撤去済みでそこに現在のホームを造ったと考えられます。

それ以前に若松〜直方間が開業した2年後、1893(M26)年12月20日に遠賀川橋りょうと現筑前垣生駅あたり(若松起点10M05C≒16.19km)に底井野信号所が設置されました。その後、1912(T1)年8月28日に0.1M(160.9m・マイルチェーンを簡略化しているので実際は前後すると思われる)直方寄りに移転しています。筑前垣生駅が開業した1935(S10)年の9月21日に廃止されています。

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  • 1891(M24)年8月30日/若松〜直方開業。《黄線》
  • 1893(M26)年12月20日/底井野〜植木間複線化に際し、若松起点10M5Cに底井野信号所開業。
  • 1894(M27)年12月21日/折尾〜中間間・植木〜直方間複線化
  • 1896(M29)年4月29日/若松〜折尾間複線化
  • 1908(M41)年/底井野〜中間間複線化。《黄線(下り)》《黄破線〜直方側上段白線(上り)》
  • 1912(T1)年8月28日/底井野信号所・直方寄りに(画像左)0.1M移転。
  • 1923(T12)年7月1日/中間〜筑前植木間3線化。遠賀川上流側に増設《下段白線》
  • 1935(S10)年4月26日/筑前垣生開業(若松起点16.1km)【白丸あたり・S23年の米軍写真にそれらしきもの有】
  • 1935(S10)年9月21日/底井野信号所廃止。
  • 1951(S26)年1月20日/筑前垣生、現在地に移転。

→筑前垣生あたりは3線→複線化されていたと思われ《直方側両白線間の黄線》にホームを設置。
→上り線は《直方側上段白線〜青破線〜中間側黄線》に配線変更か?

  • 1954(S29)年8月31日/3線→複線化(筑前垣生構内以外の区間か?)
  • 1971〜72(S46~47)年頃?/遠賀川橋りょう新上り線開業《中間側上段白線》+煉瓦橋脚一部撤去

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1974(S49)年の空中写真では、遠賀川橋りょう新上り線設置に伴って撤去された旧上り線の線路敷と今も残る宮前架道橋の桁が写っています。筑前垣生駅にはまだ跨線橋が無く、昔ながらの線路を渡って駅舎へ向かうスタイルですね。米軍写真では駅横の踏切はまだ無くて、少し直方寄りを渡っていたようです。

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↑現在の筑前垣生駅。
ホームがあるところにもう1線あった。子供心に筑豊本線にしては狭いホームだなと思ってました。関係ないけど、生まれて初めてボートに乗ったのは この近くの垣生公園でした。おっちー母も若かりし頃に遊びに来てたようで、約40年前の写真(何故かシェーのポーズをしている・笑)のバックには石炭貨物列車が写っていました。

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↑こちらは直方側。上下線の間に線路があった。ここから鞍手駅手前(小牧信号場跡)付近までは線路跡に架線柱が立っています。

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↑参考までに16.3kmはこの辺。

たった数百メートルの中で2つの停車場があっち行ったりこっち行ったり(笑)
起点からの距離、駅間距離、移転距離に関してはマイル・チェーンの簡略化や改キロ等で若干の誤差はあると思います。

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コメント(2)

>がんさん
当時の現地写真を見たわけではなので私的には100%とは言えないものの、
用地幅や現駅の様子、近年の空中写真等を見れば納得出来るし、
古い書籍でも同じような記述があるので99.9%は間違いないでしょうね。
ゆっくりおやすみくださいませ(笑)

なるほど。
これは長年の疑問でした。
もしかすると今のホームの箇所に・・・とは思っていたのですが。

おっちーさん、ありがとうございます。
今夜から安心して眠れます。(笑)

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