レンガスキーの最近のブログ記事

遺構へ行こう【室木線】

Category:廃線・未成線 コメント(2)

今頃更新?シリーズの最後です(汗)
またまた年明けに探索したやつですが・・・室木線跡の探索を「遺構へ行こう」にUPしました。
特別、目新しいものはありませんが・・・

https://otchee.com/railroad/muroki201601/muroki201601.html

https://otchee.com/railroad/muroki201601/muroki201601.html

福岡県内が大幅に更新されたグーグルストリートビュー。
いろんな使い方がありますが、レンガスキーとしては煉瓦製の鉄道構造物を見ない訳にはいきません。
現地に足を運ばなくても、ある程度(笑)見学出来ます。
なぜ?そんな所走る?みたいなのもあり、なかなか楽しめます。
ストビューの車は何回かすれ違いましたが、天井に全方向撮れるカメラが付いてるので目立ちます。
あのカメラって昇降可能なんでしょうか? 高さ制限のある煉瓦橋梁を通過してる所もあれば、避けてる所もあり・・。

筑豊本線
●新入橋梁/http://goo.gl/maps/1ITT5
●若宮川橋梁手前付近/http://goo.gl/maps/fEIwI(旧線跡)

鹿児島本線
●延命寺架道橋/http://goo.gl/maps/MSF3Q
●立屋敷橋梁/http://goo.gl/maps/691rY(旧線跡)
●土力橋梁/http://goo.gl/maps/54bHI
●谷橋梁/http://goo.gl/maps/s3xh8
●石松橋梁/http://goo.gl/maps/zo3wK(内部奥のアーチは城山越えの旧線跡)
●床田橋梁/http://goo.gl/maps/A2iLV
●長町橋梁/http://goo.gl/maps/ondyf
●長町第一橋梁/http://goo.gl/maps/UkGFV
●室口橋梁/http://goo.gl/maps/mHclm
●刈目川橋梁/http://goo.gl/maps/Wgs78

大蔵線
●尾倉橋梁跡/http://goo.gl/maps/L6jzc

香椎線
●浜男第4号橋梁/http://goo.gl/maps/cN1OC

日豊本線(名称がわからんのばかりでスンマセン・守備範囲じゃないので・・・)
安部山公園〜
●不明/http://goo.gl/maps/KJdQW
●不明/http://goo.gl/maps/814qP
行橋〜
●第2大橋橋梁/http://goo.gl/maps/DDrJh
南行橋〜
●不明/http://goo.gl/maps/hPtM0
●不明/http://goo.gl/maps/EVSAa

他にもあるかもよ。

鯰田炭坑貨物支線橋台跡

Category:廃線・未成線 コメント(2)

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幼少時代に何度も車窓から見た、鯰田炭坑貨物支線の橋台跡。鯰田炭坑駅側の煉瓦橋台はかなり前に無くなってしまったけど、本線のすぐ横にあった鯰田駅側の橋台は不明なままやった。必ずあの薮の中に何か残ってるはず・・・・そう思って何年経ったやろう・・・。上の写真は右側が鯰田駅です。

いつだったか、博多行電車に揺られてボーッと支線跡を脳内トレースしていたら、怪しげな構造物が目に入ってきました。一瞬だったので確認する間もありませんでした。これはリベンジすべしと、子供たちと大回り乗車した時に凝視してみたら、なんと橋台跡でした! しかもコンクリート+煉瓦ですぜ。たまたま線路脇の草が刈られており、さらにいつかの積雪の影響で枯れ草がダウンしてたのもあって、今までにない見やすさになっていました。

上り列車からは確認出来ないので、下り列車に乗って、以下の目印を参考にしてください。
全神経を集中させて、刮目せよ!!

namazuta2.jpg

「橋台跡はココ」が被って見えるのは、位置関係の参考のため。
あ、今からモジャるので見えなくなるかもしれません・・・・

鯰田炭坑駅は、その名の通り「鯰田炭鉱」まで、鯰田駅から延びていた貨物支線の貨物駅です。鯰田〜鯰田炭坑間の距離は、40C≒804m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典でも 0.5M≒804m)。営業期間は、1909年1月1日〜1945年6月10日。1945年からは鯰田駅に併合され構内として存続していました。おそらく炭鉱閉山まで使用されていたと思いますが、詳細な廃止日はわかりません。

旧小倉鉄道煉瓦橋台跡

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ここは月刊ブログか?と思われるほど放置気味(ネタはあったがやる気の問題・・・ツイートはしてたけど・・・汗)だったところ、とんでもないモノが飛び込んできました。

工事現場から小倉鉄道(→添田線→日田線→日田彦山線)の煉瓦橋台跡が出てきたと、べーやん様から直接メールを頂き、メールを確認したのが7月26日朝でしたので、これは急がねば・・・無理してでも行く価値アリと思ったので強引に行ってきました。

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素晴らしい! こんな立派な煉瓦遺構が駐車場の下に眠っていたとは!!
google mapで見るとこんな感じ。この状態じゃ、こんなお宝があるとか分からんばい。

kokura_0726_0.jpg

画面奥が東小倉側。手前が石田側になります。レールの位置は煉瓦橋台からある程度予想はできますね。現在の道路よりも少し高い位置を通っていたようです。周辺の線路跡上に建っている家屋を観察すると、やはり少し道路より上なので、当時は盛土区間が続いていたのかもしれません。そして、家屋の下には他にもお宝が眠っていたり・・・・。橋台がこの位置ということは跨いでいた川はもう少し幅が広かったのかもしれませんね。想像は尽きません。

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今後、小倉経済新聞によると、この橋台は7月28日には撤去されて宅地化されるようです。数少ない遺構なだけに非常に残念ですね。施工業者もまさかこんな「お荷物」が出てくるとは思わなかったでしょう(汗)

せっかくなので、他の煉瓦遺構も見てきました。
煉瓦橋台発掘場所から石田側へ少し進んだところに、煉瓦橋台が残っています。
こちらは結構知られているので、見たことがある方も多いでしょう。

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目の前の交差点を右に曲がり、真っすぐ進むと今回出てきた現場に出ます。

kokura_0726_4.jpg

片側だけに隅石が積まれています。
鋭角になっているので装飾の他に補強の意味があるのでしょうね。

まだまだ眠ってるお宝がありそうですねぇ。

大町町deレンガスキー

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たまたま用事で佐賀県の大町・武雄方面に行くことになったので、少しググってみたら、なんと大町町は炭鉱の街だったんですね。炭鉱遺構萌えな諸兄・諸姉には基本情報だったのかもしれませんが、私は全く知りませんでした(汗) てことで、所用を済ませて第一目標の発電所跡へ行ってみました。

細く入り組んだ道、高低差のある土地に密集する住宅、古びた個人商店・・・なんとなく忠隈のボタ山界隈を通っているような、どこか懐かしい不思議な感覚になりました。なんと表現したしたらいいんやろう・・・山後の炭鉱街独特の雰囲気がそこかしこに感じられました。

街中を山側に向かって進んで行くと目の前にレンガスキー悶絶の遺構が見えてきました。

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大町煉瓦館。元々は杵島炭鉱の変電所だった。

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案内板によると昭和2年から稼働していたそうです。炭鉱時代の建物としては唯一残っているそうな。

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入口前に立ち見上げてみる。思わずニヤリ。目立った装飾は無いけど美しいねぇ。

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両サイドの窓や入口の上部にある△状のやつは庇の跡か?
ドアにはご自由にお入り下さい的なことが書いてあったので、もちろん入らせて頂きますよ・・・とドアノブを押すと開かない。あぁ引くのか。そう思って引くけど開かない・・・。なんや鍵が閉まっとるんかい・・・ドアをガタガタガタさせ残念がる私。せっかく来たのに門前払いか・・・しばし沈黙・・。
「あ、引き戸やん」 いやぁ、誰も居なくて良かったっス。この一連のボケは絶対にヒミツだぞ(笑)

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↑建物内部はこんな感じ。一般的には内装の剥がれ具合が少し不気味に感じる廃墟かもしれまんが、私の場合、どことなく教会のような神聖な場所に思えました。小さな窓から差し込む光が凄くイイ雰囲気を醸し出してるんですよ。

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↑壁に残る碍子が変電所だったことを教えてくれます。
↓そこの外側にまわると碍子が付いた送電設備?が残っていました。

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今回はここだけでしたが、色々調べていくと他にも遺構が残っているようです。
いつかまた再訪してみたい所です。

目尾駅跡付近のアレ

Category:レンガスキー コメント(4)

blue fieldさんちくまえ。さんがUPされたので、じゃ私も・・・と思ったら、あまり写真を撮ってませんでしたorz たぶん煉瓦に萌え狂って写真撮ることを忘れてたんでしょうな・・・。実は3人で同時にUPしましょうか?なんて話してたんですが、やらなくて良かった(汗) ちなみに行ったのは3人ともバラバラで別の日です。
線路跡の歩道から薮の中に獣道ような所があり、側線跡がバッチリ見えていたので、そこから先へ入ったらお宝煉瓦遺構があった・・・みたいな(笑)で、分岐器跡から抜けるという、わざとらしいルートでコソーリ見学しました。

●2012年1月29日

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八角形の煉瓦遺構には参りました。これだけでご飯が3杯食べれそうなスペシャルオカズです(笑) とある方の話によると煙突の跡だそうで、なるほど、言われると確かにそう見える。他にも煉瓦遺構が掘り起こされてて、これらがつい最近まで埋まっていた事に驚くばかりです。スペシャルポンプの件だけで終らなかったんですね。


●2012年1月4日
目尾駅の分岐器跡です。

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●2009年12月6日
分岐器跡の奥ではこんな物を発掘してました。

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●この辺一帯で何か始まった頃・・・
https://otchee.com/phoblog/2009/03/post-29.html


全部埋めてしまうとは少し勿体無い気がしますねぇ。
せっかくなので一般開放すれば、我々のような物好き素人が集まったのに。残念。
また掘り返しましょう。誰が?(笑)

たまたま撮れた66,67

Category:廃線・未成線 コメント(5)

今日も珍しく夕方までフリーだったので、先日の東小倉界隈探索で活躍した折畳み自転車を積んでブラブラしてました。帰りに遠賀川の土手を通っていると、筑豊本線で撮り鉄さんの姿をチラホラ見かけました。珍しい、こりゃ何か来るな!? そう思って、とりあえず目尾駅跡前(笑)の嘉麻川橋りょうが見える土手に上がってみると、ここにも撮り鉄さんが数名いました。何が来るんですか?と尋ねようとしたところ、鯰田駅方向から見覚えのある屋根の車両が4両、こっちに向かってくるのが見えました。あの屋根は66,67!? 急いで車を降りて、ヘッポコデジカメで連写!!

20111022_6667_1.jpg

斜材被りまくりの画像となりましたが、久しぶりに66,67を見ることが出来ました。しかも国鉄色。
あれ?国鉄色は1編成だけじゃなかったんですね。
まさか2編成の国鉄色を拝めるとは思いませんでした。

20111022_6667_2.jpg

ヘッドマークが付いていましたが、画像を拡大したら、なんとなく読めました。「西海」?
おでこの取って付けたような「急行」が不自然ですね・・・。
直方在籍末期に前面幕が行先表記になったから、その時から無かったんでしょうね。

そこに居た撮り鉄さんに話しかけみると、イベント貸切列車だそうで、長崎・佐世保から出発した列車が肥前山口で併合して冷水経由でこっちまで来たそうな。彼らは冷水から追いかけてきたそうで、冷水では50人近く居たとか・・・。さすがは名所ですなぁ。明日は門司港から日田彦山線・後藤寺線・冷水経由で戻るらしい。

で、今日はどこに行ってのか。

20111022_3.jpg

近日中にまとめます。

ゲタ歯の痕跡?

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鹿児島本線では各所で開通時、増線時の煉瓦構造物が、今もその役目を果たしています。
先日UPした延命寺川の橋りょう跡から少し鹿児島本線側へ道を進むと、現役の煉瓦橋台がありました。

●延命寺架道橋

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写真は、複線分の煉瓦橋台の中心(小倉側)を撮ったもの。
上から下に亀裂が入っています。書かれた日付は平成のものが多いですが、
よく見ると、62.5.14とか46.1.1?とか古いのもあります。

ふと、この橋台もゲタ歯の痕跡があるんかいな?・・・と思ってじっくり観察。
煉瓦の積み方は一般的なイギリス積み。

kokura_takahama21.jpg

亀裂が入った部分、長手が積まれた各段ともに写真のように小口が2個挟まれています。
となると、小口の段と長手の段で櫛形になり、ゲタ歯状態になります。

kokura_takahama22.jpg

櫛形の線は逆向きも考えられます。
単線開通時はゲタ歯で施工されたのか、たまたまそういう並びになってしまったのか
・・・真相はわかりません。

ちなみに開通は、明治24年4月1日、複線化は明治30年4月20日。

以前、折尾付近で撮った橋台(一番橋)の中心にはゲタ歯の痕跡はありませんでしたが、
上下線の間の煉瓦は変な積み方をしていました。

geta_orio1.jpg

西鉄北九州線跡/4

Category:廃線・未成線 コメント(6)
(つづき)

今度は陣の原→皇后崎→筑鉄分岐付近まで行ってみましょう。

陣の原〜皇后崎間は、専用軌道跡がそのままの所、
撤去されてJR陣原駅周辺整備で道路になってしまった所、
謎の社会実験(笑)バス専用道になってしまった所に分けられます。

専用軌道跡が残る区間には、当時の標識や煉瓦橋台が残っています。

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JR陣原駅付近から専用軌道跡は途切れるのでスルー。
その先には割子川に架かっていた橋りょうの煉瓦橋台跡が残っています。
上の高架橋は国道3号線陣原付近から鹿児島本線の北側を通り、スペースワールド駅付近に抜ける黒崎バイパス。

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↓皇后崎側にも一部煉瓦橋台跡が残っています。奥に見えるのは西鉄皇后崎変電所。

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↓皇后崎電停跡は無くなっていました。(熊西側から望む)

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↓熊西方面を見たところ。

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線路跡を横断しているコンクリート蓋には高電圧的な文言が書いてあったので(うろ覚え・・)、
もしかしたら変電所からの電気が通っているのかもしれません。
ここから筑豊電鉄の分岐付近まではバラストが残る線路跡が続いています。

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この先は時間の都合で探索していません。
私の中では熊西〜黒崎車庫前〜黒崎駅前と続く時代で止まっています。
恥ずかしながら末期はあまり乗る機会が無くて、印象が薄いんですよ・・。
黒崎〜砂津が廃止になった時も近くに居ながら、鉄離れ中だったので乗りませんでした。
今思うと乗っておけばよかったなぁ・・と悔むこともあります(汗)
部屋の整理をしていると、廃止当日の新聞記事を大事に取っている封筒が出てきたので、
鉄分ゼロ生活では無かったみたいですが(笑)


西鉄北九州線跡/2

Category:廃線・未成線 コメント(0)
(つづき)

西鉄折尾駅跡の煉瓦アーチ橋はまだ健在です。
ただ、折尾駅周辺連続立体交差事業工事に関連してか、筑豊短絡線を挟んで西鉄折尾駅側のアーチ橋はヤバいらしい・・とのこと。
ねじりまんぽがある東口側は今後も残るのでしょうか・・?
その東口側のアーチ橋は、手前の建物が撤去されたせいで丸見え状態になっていました。

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左側が「ねじりまんぽ」
気付きませんでしたが、右側のアーチは補強されていました。

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昔はこんな感じに何も遮るものが無く、駅のまで連続アーチが見えたんでしょうね。

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↓こちらは南側からの「ねじりまんぽ」

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↓筑豊短絡線から見たところ。橋桁を支えていた側は煉瓦が見えなくなる程、蔦?でビッシリ覆われていました。

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↓こちらは西鉄折尾駅側

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アーチ下(写真に見えている部分)に屋根が埋まっていた家屋は無くなっていました。
なかなか面白い光景だったんですが・・。

↓西鉄折尾駅跡下のアーチ橋。煉瓦のある裏路地の雰囲気ってイイですよね。

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我が家の場合、ばーちゃんも母も私も、今は亡きじーさんも親父もおいちゃん・おばちゃんも、
当たり前のように見てきた光景なので、この遺構が見れなくなると思うと寂しくなりますね。
しっかりと、記憶に記録に残しておきます。

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(つづく)



皇后崎のねじりまんぽ

Category:レンガスキー コメント(4)
皇后崎の「ねじりまんぽ」を見てきました。
5月のGWにgolgodenkaさんがこちらに遠征された際、探索中に偶然発見されたそうです。その時のレポはこちら。
発見時に写真をメールしていただき、その時初めて存在を知りました。
今まで聞いた事もない物件でしたので、大変驚きました。
もしかしたらこれは超大発見ではないでしょうか?

場所はこちら↓
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=33.866716,130.751673&spn=0.001793,0.004023&z=19&brcurrent=3,0x3543c923f52a5115:0xe29fb29743bb3388,0

1974年の空中写真では・・

kogasaki_air.jpg

ちょうど皇后崎電停の北側になります。子供の頃は電車で何度も通った場所なのに全く記憶にありませんでした・・。衝撃の発見報告から1ヶ月過ぎましたが、ようやく現地に行けました。ついでに北九州線の折尾〜熊西も探索してきましたけど、これは後日UPします。

まずは皇后崎電停跡から見てみます。

kogasaki_10.jpg

矢印のような向きで用水路に対して斜めに架かっているのが見えます。
熊西側の線路敷跡から近づいてみると・・

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見事な煉瓦アーチ!! しかもねじりまんぽ!!
事前にわかっていても、この浮れよう。
偶然発見したgolgodenkaさんもこれ以上の喜びだったことと思います。

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折尾のアレと比べると小規模ですが、しっかりねじれてます。

↓こちらは陣の原側

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工事の際に削られたのか、前からそうだったのか不明ですが、かなり欠けています。
手前側は土が被っていたようにも見えますね。

↓熊西側のアーチ内部。

kogasaki_04.jpg

この斜め具合がたまらんですよ。よく見ると、煉瓦の割れ目から植物が生えています。恐るべし植物パワー(笑)
しかも、ご丁寧にモルタルで修復しています・・・え? 誰かが管理しているの!?

↓こちらは陣の原側

kogasaki_05.jpg

エフロが発生してますが、大きなヒビ割れも無く、年代物の割には綺麗に残っています。

kogasaki_06_55deg.jpg

ピントが葉っぱに合ってしまってますが・・水路とアーチ橋の角度はこんな感じになっています。
正確じゃないけど、斜架角はだいたい55度くらい(汗) 今度行った時はちゃんと計測しよう・・・。

明治時代に刊行された「斜架拱」では、ねじりまんぽについて詳しく解説しています。様々な数値を導き出すための公式や架拱方法、製図法などが掲載されています。カタカナ・旧漢字で非常に読み難いですが・・。国会図書館のサイトで閲覧出来ます。PDF化も可能です。
その公式の中に斜架角と起拱角(水平に並んだ煉瓦→スプリングラインと斜めに積まれた煉瓦との角度)の関係式がありました。
不正確(汗)斜架角55度(θ)で起拱角(β)計算してみると・・
tanβ=cotθ/(1/2*π)=2/(π*tanθ)=0.445766
β=24.0256876
起拱角は24.02度か・・なるほど・・・確認しようとしたけど平面的に撮った写真が無い・・。
完全に撮り忘れ。浮れてたせいでしょうな・・。今度はちゃんと見ます。撮ります。測ります。


陣の原側の削れてる部分に、平の面に刻印がある煉瓦がありました。
元々は上から何段目かだったみたいです。削られた際に目地も綺麗に剥がれ落ちたんでしょうね。

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ググってみると、大阪窯業株式会社の刻印のようです。
当時、大阪の堺や岸和田には多くの煉瓦工場があり、全国各地に資材供給していたそうです。

アーチ橋の目の前には鹿児島本線が通っています。
ソニックの手前には、鹿児島本線貨物、筑豊短絡線の2線が通っていてます。

kogasaki_08.jpg

↓反対側を見ると目の前には西鉄皇后崎変電所の建物が見えます。

kogasaki_09.jpg

帰り際に、北九州線跡と鹿児島本線に挟まれた所の家の方が外にいらっしゃったので
「あの煉瓦アーチ橋って何ですか?」と尋ねたら「わかりませんねぇ」とのことでした。

このアーチ橋、一体何者なのでしょうか?

日本で確認されているねじりまんぽの殆どが鉄道用だそうです。
それを前提にいろいろ考えて(妄想して)みました。golgodenkaさんと被りますけど・・(汗)

1.鉄道説
1-1.鹿児島本線から分岐?
位置的にはそう考えてもおかしくなさそうですが・・。この付近の鹿児島本線開通→複線化の線路は、現在の筑豊短絡線・鹿児島本線貨物が通っている部分にあたるので、空中写真を見ても分かるように煉瓦アーチとの距離が短く、角度的にも分岐もしくは曲線を敷くには厳しそうな感じに見えますが・・。

1-2.都市伝説的(笑)な運炭線跡? 〜golgodenkaさんにメールした内容とほぼ同じ〜
かなり前に某掲示板で書き込まれた内容・・・
http://snow.jamfunk.net/kyukei/log/004/1020192442.html の248
http://mimizun.com/machi/machi/kyusyu/1125301559.html の150以下
これらの情報では、黒崎から上津役まで運炭線があったらしい・・・ということです。掲示板上でも解明されてないようでした。私はROM専でしたが(汗) 仲間内でも色んな情報が飛び交いましたが、決定的な情報が無く今に至っています。熊西の歴史が記載されたサイト内の米軍写真(外部リンク)を見ると、ねじりまんぽから川沿いを通りS字を描いている怪しげな所があります。道路にしては不自然な形だと思います。筑鉄の萩原電停あたり(青山付近)に続いているのですが、その先を辿ることが出来ません。仮に運炭線だったとして、北九州線開業後(1914年(T3)に九州電気軌道によって開通)も存在したならば西鉄と平面交差してしまいます。そんな話は聞いた事がないので、あったとするなら明治後期あたりまでかもしれません。しかし、鹿児島本線への進入は形状的に厳しいので、この仮説はハズレかも・・・。運炭線自体も情報が殆ど無いため詳細は不明です。

2.道路説
2-1.わざわざねじりまんぽ?
golgodenkaさんがUPされてる旧版地図を見ると、新地(現在の三菱)あたりから鹿児島本線と交差して割子川沿いを進む道が確認出来ます。位置的にも煉瓦アーチ橋と合ってる感じです。しかし、道路橋だとしても、当時はこんな田舎に車が通るとは考え難いし、せいぜい馬車か人ぐらいで荷重はかからないでしょうから、小さな川にわざわざ煉瓦のアーチ橋、ましてや「ねじりまんぽ」で施工しなくてもよさそうな気がします。木橋で十分の事足りるような感じですけど・・。

2-2.歴史的道路?
1-2の米軍写真を掲載しているサイトの熊西・皇后崎あたりの歴史を読むと、当時は黒崎から折尾へ続く道があったらしい。さらに色々ググってみると、長崎街道黒崎宿の乱橋から分岐して撥川(ばちがわ)に沿った幹線道路があり、新地へ続いていて、その黒崎から折尾へ続く道と合流していたようです。情報を統合すると、黒崎〜新地〜皇后崎〜陣の原〜長崎(折尾東口電停跡周辺)〜則松〜吉田(水巻町)〜中間〜底井野〜赤間と結ぶ、長崎街道と唐津街道のバイパス的役割を持った道だったようです。他にいくつかルートがあったようですが、その中でもここは「内往還」と呼ばれるそうです。
その「内往還」のルート上にこのアーチ橋があったということでしょうか。

2-3.ついでに改修?
明治以前からある道ならば当然、木橋でしょう。その後、九州鉄道が開通する事となり「内往還」と交差することになります。割子川の橋梁(第1・2穴生川橋梁?)新設工事を行う際、もしくは、九州電気軌道が敷設工事する際に、「もしかしたら昔は殿様が通っていたかもしれない道なので、ついでに立派に改修してしまえっ! じゃ、流行の斜架橋で」ってなった!? そりゃない?

なんだか全然まとまらない記事になってしまいましたが(汗)
様々な謎を持ったねじりまんぽでございました。



小竹駅の煉瓦

Category:レンガスキー コメント(3)
風邪が長引いて体調がイマイチですが、午前中に久しぶりに単独行動が許されたので(笑)、枝国→幸袋→目尾→小竹→新多〜菅牟田→磯光→筑前宮田→勝野と行ってきました。晴れたり曇ったりで体感温度の差が大きく感じられる日曜日でしたね。洗濯物の乾きもイマイチでガックリです(汗)

さて、その中から1つ。
以前から、小竹駅の鯰田側の西側にある煉瓦遺構が気になっていたので探索。
(ちなみに東側には煉瓦造りの古河所有?のポンプ室みたいなのがあります。)
場所の確認。画面左が北向(筑豊本線勝野方)

kotake0.jpg

1981年の空中写真より。駅はまだ地上にあります。
青い部分が現在の道路。駅は交差点の左下角に橋上駅舎になって移転。
今回の記事は「←これ」部分の煉瓦構造物。
拡大すると、

kotake000.jpg

現在の状況を現・小竹駅勝野側から見ると、(画面中央の黄線部分)

kotake00.jpg

で、現地に行って見ると立派な煉瓦構造物が残っていました。
煉瓦の凹部分を数えたら5〜6線分はありました。

kotake01.jpg

筑豊本線上り線横から見たところ↓

kotake02.jpg

上り線の横ってことは幸袋線の跡になるのかな?
で、その隣は塩頭貨物支線の跡で、その隣は側線が並んでいたのかな。
炭鉱全盛時は筑豊本線のなかでは中規模な駅だったらしいけど、この煉瓦遺構を見て明治〜大正時代には多くの側線を持つ駅だったことがわかりますね。延伸時の終着駅だったこともあるし、幸袋線・塩頭・新多からの石炭輸送も集まってくるし、石炭車の数も半端なもんじゃなかったでしょうね。
私はこの駅には降りたことはなく、一停車駅程度の範疇でしか覚えていませんが・・・昭和50年代前半、広い構内の側線に申し訳程度の数両のセラと貨車が留置してただけのなんとも寂しい駅・・そんな印象でした。まぁ、その頃は、鯰田・勝野あたりもそうでしたけどね(汗)

煉瓦構造物から現在の小竹駅を見たところ↓

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ちなみに、空中写真を見てもわかるように新多への貨物支線は駅の勝野側から分岐していました。数年前に陸橋の先の道路から撮った写真ですが、その跡がわかります。

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駅の西側が整備されて一部の線路跡が無くなってしまいましたが、今でも矢印付近の跡と付け根部分のコンクリート橋跡は残っています。新多方面の線路跡は、ここを除いて全て道路と遊歩道になっていますが、コンクリート橋跡らしきものが遊歩道に1ヶ所残っています。


北九州・筑豊近代化の遺産100選

Category:雑記 コメント(5)
久しぶりに近所の書店へ行ってみたら、
「ポケット判北九州・筑豊の近代化遺産100選」という本が店頭に並んでいました。
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刊行済のやつから抜粋してるだけかと思いきや・・・
↓こいつが掲載されているじゃないですか!

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レンガスキー・アーチスキー悶絶の海老津炭鉱の運炭線跡ですよ。
巻末を読むと・・やはり庵田さん担当でしたね!ここ探索しといて良かったです。
あのときのコメントに「超収穫」という言葉を戴き、いつか取り上げてくれるだろうと信じておりました。
今まで殆ど注目されなかった貴重な遺構が、こうやって色んな方の目に留まるのは非常に嬉しいですね。
ちなみに、本文に出てきた上野英信の「廃鉱譜」は10年位前に古本屋で入手して読みました。

ここは静かな集落へ抜ける生活道路だし、アーチ上も運炭線跡故に細い生活道路ですので、
探索の際は気を付けて下さいね。分かり難い場所だし(汗)

雨の廃線ドライブ/1

Category:廃線・未成線 コメント(2)
連休突入しましたねぇ。昨日は九州国立博物館で開催中の阿修羅展へ行ってきました。駐車場待ちと入場待ちと館内の人の多さに疲れてしまい、早寝してしまいましたわ。テレビでは、知っとこで廃線特集、TNCのCUBEでは香月線と室木線のコーナーがあったり、思わず廃線ブーム再来か!?と思いましたよ(汗) 香月線と室木線は現役時の映像が流れてて感動しましたねぇ。香月線においては、楠橋付近の枕木柵・黒川の橋台跡、室木線でも煉瓦橋台跡を取り上げるなど、かなりツボを押さえた内容でしたね。

先週は仕事で Google Maps API の java script と XML ファイルを弄らなければならなかったので、慣れない作業に頭がパンクしそうな感じで、ここは放置状態でした(汗) 先週末にUPする予定だったものを上げていきましょう。

先週の土曜日に近場を廃線ドライブしてきました。嫁=仕事、娘=保育所だったので、久しぶりに完全フリーに。しかし、朝からずっと雨模様・・。それでも行ってきましたよ。
ルートは位登の専用線・豊前川崎→福田→大任→添田→大任→福田→豊前川崎→嘉穂(信)→下鴨生・上三緒→筑前山野・平恒・枝国→小竹→新多・菅牟田→磯光 こんな感じ。だいたいどの道路を通って行ったかわかるでしょう?

●添田線・伊原駅跡付近/小倉鉄道時代の杭が残っていました。

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伊原駅跡に残っていた木製の柱(web otchee内通称・エカ柱)はまだ健在でした! 電柱の前の細道の先が行き止まりということを忘れてて、また車で突っ込んでしまい、脱出が大変でした(汗)

●添田線跡・伊原〜添田間/「工」柱も残っていました。

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●添田線跡・大任〜伊原間
通る度に気になっていた謎の煉瓦構造物を近くで見てきました。

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車で通ると一瞬で通り過ぎるので「何?今の?まぁ、あとで見てみよう」
そう思っていました。気が付いたら数年経ってしまいました。

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雑木林の中にポツンと眠っている煉瓦構造物。レンガスキーな方ならきっと反応するはず(笑)

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横に階段があるので登ってみると・・ん?これは、もしやサイフォン?

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山側は口が開いているし、さらに山側の法尻には側溝があって水が流れているようだし、やっぱりサンフォンで線路の反対側へ水を通していた跡なんじゃない? 煉瓦製のサイフォンは採銅所付近でも見たことがるし、小倉鉄道時代のもので間違いない!? 思わぬ遺構発見で浮れてしまい、線路跡を横断した反対側を確認するのを忘れてました(汗) 宅地と道路になってるので、たぶん無いかも・・。

●油須原線・彦山川橋梁跡/雨のバカ(泣)

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●添田線・岩石架道橋跡/あの標識も健在です。

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●油須原線・福田トンネル跡/モジャってて、とても行こうとは思いません(笑)

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●油須原線・福田トンネル〜豊前川崎間/謎の標準軌スラブもそのまま。

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その2に続く。

尾倉橋梁(大蔵線)

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またまた大蔵線。

街並に溶け込んでしまった遺構「尾倉橋梁」です。

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↑海側より。
以前は高さ制限の看板は無かったんですが・・・
景観的によろしくないんじゃないでしょうか?

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↑山側より。

以下の写真は2007年4月のものです。

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引き気味に撮らないと、アーチ橋の上に家屋があるダイナミックさが伝わりませんね。

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素晴らしき下駄っ歯の凹凸美!この凹凸が、たまらん方は多いでしょう(笑)

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真下から見上げると植物が真っすぐ伸びていて、90度回転した世界が広がっています。

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天井ガリガリの被害はここでも起きていました。折尾ほどじゃありませんが(笑)
やはり高さ制限のゲート設置は仕方ないのでしょうか・・。ちゃんと標識があるのに。

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↑黒崎側の謎のスペース。
道路幅調整のため?端っこ通るとアーチにぶつかっちゃうから?
海側には家屋がかかってるから?大蔵側にはありません。

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山側には石碑があります。設置は平成7年と橋梁の歴史からするとつい最近。

2007年4月にトレースしたときは途中の道路も撮ったんですが、あまりにも変わりすぎてて普通の街並み写真になりました(汗) 尾倉橋梁付近はおそらく線路跡がそのまま道路になった感じですが、茶屋町橋梁の前後は家屋になっているので、道路のどこまでが線路跡だったのかはわかりません。茶屋町橋梁は歩道橋として活用された時代があるそうなので、その頃の写真があれば見てみたいですね。


板櫃川の橋梁跡(大蔵線)

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引き続き大蔵線シリーズ。

筑前と豊前の国境線であった板櫃川に煉瓦橋台と橋脚の基礎跡っぽいのが残っていましたが、最近になって道路拡幅工事の影響か、橋台上の家屋が撤去されていました。

以下、写真3点は2007年4月のもの。

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2009年7月19日は、このようになっていました↓


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家屋があった所は更地になっていました。
線路跡は白い建物と右隣の細道だったと思われます。
その先の道は茶屋町橋梁の前まで続いています。


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ここまで道路になるんでしょうか?それとも歩道? どのような形で影響されるのかわかりませんが、数少ない大蔵線の遺構ですので大事にしてもらいたいものです・・・。


茶屋町橋梁(大蔵線)

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今日は訳アリで、小倉裏線の足立駅周辺と大蔵線の探索へ行ってきました。
足立駅はかなり広かったようで、暑い中歩くのは大変でした(大汗)

大蔵線といえば「茶屋町橋梁」・・・もう説明は要らんでしょう(笑)
あまりにもメジャーすぎてうちのサイトではUPしてなかったと思います。

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レンガスキー悶絶の逸品です(笑)

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田川線の内田川橋梁みたいに全面下駄っ歯もインパクトがありますが、ココの場合、下駄っ歯の機能的にどうなん?これ絶対意匠目的にやったでしょ?みたいな感じで配置が絶妙ですもん。当時の現場監督に聞いてみたいもんです(笑)

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何度見ても素晴らしい!

山側は当然フラットなスッキリしたツラになってます。

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この煉瓦の中には刻印が入ったものがあります。

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煉瓦構造物を見る時は必ず刻印を探すようにしていますが、ココでもいくつか見ることができます。

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よくわからんので、ググってみると「イ一」の刻印は「岡田煉瓦製造所」製品らしい。社名を表すものや職人や職人の班を表すものもあるそうな。この会社、今年で111年とのこと。2009-111=1898 明治31年か。この線が開業したのが1891(明治24年)か。ん?合わんぞ。違うのかな?別の意味なのかな?やっぱりわからんわ(汗)

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刻印は平の面に付いているものが多く、高さの低い煉瓦橋台の上部などで見かけることがあります。このように長手面にあるものは、なかなか見かけません。見落としてるだけかもしれませんが(汗)

この後、大蔵駅跡近辺→尾倉橋梁を探索しました。

3線跡を往く XVI

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このシリーズ、遠賀川橋りょう〜中間間へ進む前に、UPし忘れてた場所を・・・。

●第3堀下橋りょう(鞍手〜筑前垣生間)

2mちょっとの短い橋りょうです。ここにも煉瓦橋台がありました。
手前から、上り線・撤去線・下り線です。
何度も書いてるかもしれませんが・・・
一番奥の下り線がコンクリート製なので、この3線の中じゃ一番新しいのがわかります。

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手前の桁は「鉄道省」の銘板付きでした!
コンクリート橋台には床石が付いているのがわかります。
遠賀川橋りょうの橋脚にも床石が付いてるんですが、この規模のコンクリ橋台にも付くもんなんでしょうか?
実はコンクリートの皮を被った煉瓦構造物だったりして!?

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●鞍手駅そばの踏切(筑前植木〜鞍手間)

この踏切は上下線の間にいかにも1本線路がありました。っていうような作りになってます。歩道と車道を区切るトラ模様の縁石がありますよね?写ってないけど画像の左側にもあるんですよ。そこだけ縁石が切れるのはおかしいし、アスファルト敷きの微妙な違いもあるし。線路があったのは間違いないでしょうね。鞍手側には昭和41年まで小牧信号所があったので、もしかしたら、この辺まで本線から内側に分岐した側線があったのかもしれませんね。ちなみに今は鞍手駅の垣生側に渡り線があります。信号所のものかはわかりませんが、渡り線のそばには何かの建物の基礎部分が残っています。

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3線跡を往く XV

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遠賀川橋りょうの煉瓦橋脚跡に転落防止柵が設置されていました。

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見慣れていた古い煉瓦橋脚に突如現れた真新しいフェンス・・・。
う〜ん、なんだかミスマッチ・・。
煉瓦構造物が持つ独特の美が損なわれたような気が・・orz

とは言え、これまでは、上り線からステップを降りて煉瓦橋脚の上に立つと、柵も何も無いわけで、
川の上なら、あ〜落ちるぅ〜ジャブーン。で、助かるかもしれんけど、
河川敷上だと・・・打ち所によっちゃガクブルですし。
そう考えると、今までステップがあるのに柵が無かったのは安全上問題ありですよね。


●遠賀川橋りょう #6

背丈以上に成長してた雑草群が、いい具合にヘタっていたので垣生側の河川敷にある煉瓦橋脚を見てきました。(ちょっと前だけど)

・筑前垣生側橋脚1基目(11P)

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・筑前垣生側橋脚2基目(10P)

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・筑前垣生側橋脚3基目(9P)

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・筑前垣生側橋脚4基目(8P)

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・筑前垣生側橋脚5基目(7P)

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7Pは、他の橋脚よりもアーチ部分が下にあり隅石の数も多く、井筒部分も低い位置にある。
なぜココだけこんな構造になってるんでしょう?
歩いている時には気付かなかったけど、この辺は少し地面が低くなってるんやろうか・・。

河川敷に残る1基、6P(中間・垣生側から6基目)は茂みが凄くて近づけず断念。

各橋台とも煉瓦の積み方・数に微妙な違いがあったり白華具合も様々で、
それぞれ違った表情してるので、じっくり見ると楽しいですねぇ。



妄想倉庫

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先月より、おっちー母がナ○コで買った倉庫(物置)が庭に鎮座しております。

押し入れに入らないものをなおす!と言ってたわりには中に大したものが入ってない・・。
屋外の倉庫なんて、いずれは錆びて朽ちてホコリまみれになるじゃないか・・。
隙間から変な虫とか入ってくるだろうし・・。私物を中に置くのはイヤだなぁ。

そこでぇ、そんなあなたに今日ご紹介する品はこちら!
「高耐久高品質ルネッサンスデラックス煉瓦倉庫」
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この煉瓦倉庫の耐久性は、「三匹の子ぶた」で実証済みの安心設計! 100人以上乗ってもたぶん大丈夫!
入り口と窓の上の曲線がおしゃれですね! 今回は特別日本向け仕様の瓦葺き!
気になるお値段は・・・

・・・って妄想はこの辺にして(汗)

いや、ホント、こんな倉庫が欲しいなぁと思って描いてみました。(かなり前だけど)
モデルはランプ倉庫です。
通常ならレンガの壁なんかはテクスチャ作ってペタッと張り込んで終了なんだけど、
これは1コ1コ積んでいきました。連続部分はコピペですけど。

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ふと思った。レンガ+日本瓦で和洋折衷な建物ですなぁ。
アイスでいえば「雪見だいふく」みたいなもんか?(笑)

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作り終わって気が付いた。これってフランス積みやん。
モデルがググって引っ張ってきた画像なんで詳細は知らないんだけど、明治初期のものだよね?
個人的にはイギリス積みの方が好きなんだけど・・。モデリング中に気付かない私、おバカ(汗)



久しぶりのこのシリーズを・・。
写真は去年のものです。

●遠賀川橋りょう #5

・中間側橋脚4つ目(4P)

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他の橋脚と同じ造りで、連続美を形成していますが、アーチ部分をよく見ると・・

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巻厚が他は4枚ですが、ここは5枚になっています。
画像じゃわかりませんが、垣生側の橋脚も5枚になってます。
おそらく、遠賀川の流路にかかる橋脚は全て5枚で、河川敷の橋脚は4枚になってるのではなかろうか。


昨年、昔、中間に住んでおられた方から、この遠賀川橋りょうに関するメールを頂きましたのでご紹介したいと思います。



私の故郷である中間の遠賀川鉄橋を見て懐かしさが込み上げております。さて、遠賀川鉄橋のレンガ橋脚が不規則に積上げられ、寸法が違うのは、私が小学校の 時、校外授業で中間駅を見学した折に、駅員さんから聞いた話ですが、筑豊炭田が最盛期に中間市は石炭の採掘の 為に地盤沈下が激しく、遠賀川鉄橋(他の鉄橋etc)が傾き掛けたそうです。汽車を安全に走らす為、鉄橋のレンガ土台を何回も作り替え、鉄橋を架け替えた そうです。そして、私の父方の親戚の叔父(故人)が国鉄マンでSLを運転していた当時、遠賀川鉄橋を石炭列車を牽いて渡る時は、列車が微妙に傾いて走るの で「いつか 、こける!」と恐怖心でSLを運転していたと幼い頃に良く聞いておりました。御参考には程遠いですが遠賀川鉄橋は石炭産業による地盤沈下との苦難の戦い歴 史だったのです。特に架け替えた跡が分かるのは、筑豊本線と旧香月線がオーバークロスしていた場所に残っているレンガ橋脚です。(前に堀川があります が・・・)何回 もレンガを積替えた跡が残っております。


大変興味深い内容のメールありがとうございました。
最後に出てきた橋梁(石仏架道橋)の橋台はとても複雑な形をしています。
何度も見に行きましたが、その形故、ついついじっくり見てしまいますね。
3線跡を往くシリーズで紹介したいと思ってます。


谷倉拱橋 〜嘉穂信号場〜

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嘉穂信号場の大隈側にあった煉瓦アーチ橋「谷倉拱橋」の画像をHDから探してみました。
デジカメ以前のプリントは見つからず・・。どこになおしたかいな・・?

●2004年4月
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●2007年12月
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●2008年1月
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●2008年2月/この頃から信号場側の盛土が崩されていった。
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下部のコンクリートは1964年3月に造られています。
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●2008年3月/videoからなので画像悪でスマソ。
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●2008年5月/videoからなので画像悪でスマソ。
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●2008年12月23日/Photo by ちくまえ。さん thanks!!
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●2008年12月27日 ついに消えてしまいました。
足下の水路にはコンクリの破片に混ざって煉瓦の欠片が少し転がってました。
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まだ風邪が尾を引いているようで体調は万全ではありません。
夜中に急に咳が出るのは勘弁していただきたい・・・。
てことで、ぼちぼち続きをUP。

●遠賀川橋りょう #4

・中間側橋脚2つ目(2P)

↓中間側から見たところ。

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ここも増築部分の煉瓦の積み方が斜めになっています。
また、1Pと同じく、上下線を横のラインで比較すると長手と小口が1段ズレています。

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↑こちらは垣生側から見たところ。バカが落書きしてるので無残・・。

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雑草の生え具合を見てわかるように撮影時期がバラバラです・・。

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↑開業時側の橋脚断面。
どの橋脚もそうですが、床石の側面に合わせて削られています。
転びが付いているためか、断面部分の積み方は水平じゃありませんでした。
断面が見れる構造物も珍しいのでは!?

●遠賀川橋りょう #3

・中間側橋脚1つ目(1P)

↓筑前垣生方面を望む。

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撤去された部分のアーチが辛うじて一部残っています。アーチ部分は4巻き。
無残に削り取られた部分は爪痕が残る。

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↓アーチ部分から2番目の橋脚(2P)を見てみる。美しい半円アーチに萌え(笑)

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↓こちらは垣生側のアーチ。

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橋脚をよく見ると、上下線間の煉瓦の色が規則的に違っていました。
近くで見ると煉瓦は斜めに削られており、しかも上下間で線路方向の幅が違っていました。

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それで、じっくり観察してみたら、開業時の橋台(削られた方)は鉛直部に転びがついており、削られた方向から見ると台形に、複線時の橋台(残っている方)は鉛直部がそのまま鉛直で、削られた方向から見ると矩形になっていました。台形の底辺と矩形の底辺(双方の井筒基礎上部)は同じなので、並べると三角形の段差が出来てしまう。なので、このように斜めに積んで段差を埋めたのだと思われます。
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この画像じゃ分かりにくいけど、台形断面になってて奥は矩形断面になってます。

↓某チーズのようにカットされた石材で組まれた井筒基礎部分。

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あと疑問なのが、橋脚の水平断面はどんな形だったのかということ。
下流側の増築部分は隅石から想像するに矩形断面と思うけど、上流側の撤去された部分は元々どういった断面だったのだろう? 遠賀川はかなりの流量なので矩形断面でないことは間違いないと思います。感じ的には小判形かな?
●遠賀川橋りょう #2

・中間側の橋台(1A)

以前は県道が河川敷(トラス橋の1連目下・1B)を通っていました。下流側の県道跡は河川敷へ下る道路として残っているので、中間側の橋台・橋脚が、すぐそばで見ることが出来ます。

↓現上り線側より(奥のトラスは現下り線)

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いやぁ〜立派な煉瓦構造物ですなぁ!間近で見るとホント圧倒されます。100フィートのトラス橋が架かっていただけあって、床石の大きさは半端じゃないです。上りと下りで床石のサイズが違っているのは何故でしょうか?これは橋脚の床石もそうなんです。施工した時期が違うからなのか、架かっていたトラス橋の規模が違っていたためなのか、その辺はよくわかりません。

↓旧複線上りの床石まわり(床石/約1,410×450mm)

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↓上下線の中間(床石/左・旧複線上り=約1,410×450mm、右・旧複線下り=約1,420×590mm)
煉瓦の目地にズレがある。増設時のものでしょうか?

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↓複線旧下り線の床石まわり(開業時の線→複線下り→中線→複線上り)
アンカーボルトが残っています(床石/約1,420×590mm)

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特に凝った装飾は無い橋台ですが、下流側の斜めになっているデザインは印象的です。先日のエントリーにある、筑前垣生側のコンクリート補修部分で斜めになっている部分は、このようになっていたんじゃないかと思われます。上流側は草に埋もれてて確認出来ませんでした。

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↓合成写真でスマソですが、全体像はこんなかんじ。

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筑豊本線のアーチ橋

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以前のエントリーで筑豊本線には煉瓦アーチ橋が少ないと書きました。
その少ない中から1つ紹介。

●市ノ間橋梁(浦田〜新飯塚)

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↑上り線側
全体的に石材で造られています。
コンクリートで補強されていますが、アーチ部分は煉瓦巻です。

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↓下り線側

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こちらはアーチ部分が完全にコンクリで覆われています。
なので、単線時の姿や複線時にどうなったのかはよくわかりません。
ちなみに同区間には上りと下りで材料の異なる橋台があります。

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↑上り側にある刻印。昭和16年11月とある。



●遠賀川橋りょう #1

筑豊本線における「キング オブ レンガスキー」は、やっぱり遠賀川橋梁の煉瓦構造物群でしょう。煉瓦の組積美・アーチ曲線美・井筒基礎の円形美・一直線に並んだ橋脚の連続美、どこから見ても美しい構造物だと思います。え、私だけ?(笑)
残念なことに煉瓦橋台の上流側(開業時の線→複線時下り→3線の中線→旧上り)は、現上り線開通直後に取り壊されて、現上り線橋脚にくっついた状態の下流側(複線時上り→3線上り→線路撤去)のみ残されています。橋脚だけに目が行きがちですが、残った橋脚と取り壊された橋脚、それぞれに繋がる煉瓦橋台が残っています。

・筑前垣生側の橋台(2A)

近くで見るとその大きさに驚きます。奥に見えているのは現上り線。
全体的にコンクリートで補修されていて煉瓦はパラペット部分と側面ぐらいしか見えません。中間側の橋台には笠石があるので、もしかしたらこちら側にも付いていたのかもしれませんね。画像左の隅石上部から線路側にかけて斜めになっている部分は中間側も同じ形状になっています。そこにも笠石が積まれています。

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中間側(後日エントリーします)の床石は1段なのに筑前垣生側だけ2段重ねになっています。

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↓3線時代の橋台群。手前から上り線・中線・下り線。1923(T12)年に開通した下り線はコンクリート製の橋台です。

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↓橋脚(11P)のアーチから見た筑前垣生側の橋台跡。

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先週末から風邪を引いてしまいました。近場の温泉に行ったんですが、暑がりの私が珍しく「湯がぬるい!」と言ってたら、案の定、熱が39度近くまで上がってました。子どもの頃から熱には弱く、37度になるとクラクラしてしまいます(笑) 今は持ち直してきましたが・・・皆さん、体調管理はしっかりしましょう(汗)

●筑前垣生・底井野
筑前垣生〜中間間も3線だった時がありました。島式ホームの筑前垣生駅に立ってみると複線はわかるのだが、もう1線分はどこ?と思われる方がいるでしょう。ホームがある場所にもう1線分があったようなのだ。

筑前垣生駅が開業したのは1935(S10)年4月26日。この時はまだ遠賀川橋りょうのすぐ横にあり、1951(S26)年1月20日に0.3km直方寄り、現在の位置に移転してきました。3線撤去は1954(S29)年8月31日とされていますが、移転時には既に撤去済みでそこに現在のホームを造ったと考えられます。

それ以前に若松〜直方間が開業した2年後、1893(M26)年12月20日に遠賀川橋りょうと現筑前垣生駅あたり(若松起点10M05C≒16.19km)に底井野信号所が設置されました。その後、1912(T1)年8月28日に0.1M(160.9m・マイルチェーンを簡略化しているので実際は前後すると思われる)直方寄りに移転しています。筑前垣生駅が開業した1935(S10)年の9月21日に廃止されています。

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  • 1891(M24)年8月30日/若松〜直方開業。《黄線》
  • 1893(M26)年12月20日/底井野〜植木間複線化に際し、若松起点10M5Cに底井野信号所開業。
  • 1894(M27)年12月21日/折尾〜中間間・植木〜直方間複線化
  • 1896(M29)年4月29日/若松〜折尾間複線化
  • 1908(M41)年/底井野〜中間間複線化。《黄線(下り)》《黄破線〜直方側上段白線(上り)》
  • 1912(T1)年8月28日/底井野信号所・直方寄りに(画像左)0.1M移転。
  • 1923(T12)年7月1日/中間〜筑前植木間3線化。遠賀川上流側に増設《下段白線》
  • 1935(S10)年4月26日/筑前垣生開業(若松起点16.1km)【白丸あたり・S23年の米軍写真にそれらしきもの有】
  • 1935(S10)年9月21日/底井野信号所廃止。
  • 1951(S26)年1月20日/筑前垣生、現在地に移転。

→筑前垣生あたりは3線→複線化されていたと思われ《直方側両白線間の黄線》にホームを設置。
→上り線は《直方側上段白線〜青破線〜中間側黄線》に配線変更か?

  • 1954(S29)年8月31日/3線→複線化(筑前垣生構内以外の区間か?)
  • 1971〜72(S46~47)年頃?/遠賀川橋りょう新上り線開業《中間側上段白線》+煉瓦橋脚一部撤去

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1974(S49)年の空中写真では、遠賀川橋りょう新上り線設置に伴って撤去された旧上り線の線路敷と今も残る宮前架道橋の桁が写っています。筑前垣生駅にはまだ跨線橋が無く、昔ながらの線路を渡って駅舎へ向かうスタイルですね。米軍写真では駅横の踏切はまだ無くて、少し直方寄りを渡っていたようです。

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↑現在の筑前垣生駅。
ホームがあるところにもう1線あった。子供心に筑豊本線にしては狭いホームだなと思ってました。関係ないけど、生まれて初めてボートに乗ったのは この近くの垣生公園でした。おっちー母も若かりし頃に遊びに来てたようで、約40年前の写真(何故かシェーのポーズをしている・笑)のバックには石炭貨物列車が写っていました。

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↑こちらは直方側。上下線の間に線路があった。ここから鞍手駅手前(小牧信号場跡)付近までは線路跡に架線柱が立っています。

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↑参考までに16.3kmはこの辺。

たった数百メートルの中で2つの停車場があっち行ったりこっち行ったり(笑)
起点からの距離、駅間距離、移転距離に関してはマイル・チェーンの簡略化や改キロ等で若干の誤差はあると思います。

3線跡を往く VII

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●宮前架道橋

中間から遠賀川橋りょうを渡り終えてすぐの架道橋。筑前垣生側のみですが、ここにも煉瓦橋台の一部が残っています。

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現在の架道橋は上下線と上下線の間の1本の3線分あるので、これが当時の3線跡と思われる方がいるかもしれないので再確認。これは遠賀川橋りょうも同じですが、奥から、
・2代目下り(現)
・開通時単線→初代下り→中線→2代目上り(線路無・遠賀川橋りょうの削られた煉瓦橋脚部分に続く)
・初代上り(側壁化している煉瓦橋台跡・遠賀川橋りょうの残された煉瓦橋脚部分に続く)
・3代目上り(現)
一番新しい3代目上り線以外が3線時代に使われていたものです。

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遠賀川橋りょうの煉瓦橋脚群と同じように、現上り線にひっついた状態で初代上り線の橋台跡が残っています。橋台は殆どコンクリートで覆われていますが、一部分だけ煉瓦が見えています。



3線跡を往く VI

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筑前垣生〜中間間から

■第2宮前架道橋(橋りょう)
筑前垣生駅と遠賀川橋りょうの間にある暗渠型のアーチ橋。ここは初期の複線煉瓦アーチと増線分の石積みアーチを見ることができる。

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アーチ部分はコンクリートで覆われている。幅は44cm位だったので煉瓦の巻厚は4枚と思われる。アーチ上部がどんな形であったかは想像出来ない。

中に入ってみるとスプリングラインに石積みがあり、下の側壁は煉瓦積みでポリクロミー装飾がしてあった。バカが落書きしているのは残念。

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さらに側壁の目地は山目地になっていて非常に目を引きます。

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↓煉瓦積みと石積みの境界。

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増線側は石積みアーチで要石が付けられています。

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長さは煉瓦積み部分が約9m40cm、石積み部分が約11m。通常ならば、単線を増線した場合、増線分の長さは短くなるはずなんですが、ここでは長くなっています。おそらく、遠賀川橋りょうの増線分が既存の複線部分よりも離れていたこと、また、この盛土上に底井野信号所があったからだと考えられます。

スプリングラインの石積み、側壁のポリクロミー、要石と装飾要素が多いアーチ橋です。何か意味があるアーチ橋なのかもしれませんね。筑豊本線ではこの手のアーチ橋は、私の知る限り非常に少ないです。全体的に勾配が小さく平坦な地に線路を通したからでしょうか。







海老津に炭鉱があったのを知ってますか?
数年前、昭和初期の地図を見ている時に海老津駅の南東、奥まったところに海老津炭鉱というのがあり、駅まで運炭線が延びているのを確認しました。その後、空中写真や地図で確認したら、運炭線跡はほぼ道路になっていることがわかりました。ネット上で地図を最大まで拡大してトレースしていると、運炭線の下を潜って集落に抜ける道があり、トンネルの記号が付いている所がありました。これは現地で確認せねば!・・それから年月が経ちましたが、ようやく探索してきました。

運炭線跡の道路は確かに車1台分くらいの幅の道路になっており、道なりに進むと海老津駅まで抜けました。とりあえず運炭線跡道路とわかる所を往復したのち、今回の目的のトンネルの記号が付いた場所へ行ってみることに。モバイル地図を頼りに徒歩で探索。するとその場所へ続く、車がやっと通れるような道を発見。早速、登ってみることに。すると目の前に現れたのは煉瓦アーチ!

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おぉ、レンガスキー感激ぃ!の瞬間でした。結構高い位置を運炭線跡道路が通っていて(大蔵線の尾倉橋梁状態)盛土部分が広いので、思ったよりも長さはありました。とりあえず外観をじっくり見ていると、巻いている部分が変じゃないか?近くで見てみると。

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ね、ねじりまんぽ!?
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いやいや、よく見ると斜めに並んでないし

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単純に長手方向にシフトさせて斜めに架かってる感じでした。この形状のアーチは初めて見ました。珍しいものなんでしょうか?もしそうならば、ぜひ専門家に調査していただきたいですね。

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このアーチ橋、微妙に角度の付いた「くの字型」になっており、「斜め部分の煉瓦」「直線部分の鉱滓煉瓦」の構造になってました。海老津炭鉱の運炭線はエンドレスだったらしく、建設当時は煉瓦部分のみの単線で、あとからエンドレス形式にした時に鉱滓煉瓦部分を増設したのではないか?と推測したんですが・・どうなんでしょうねぇ?

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↓反対側はとくに目立った意匠もない平凡なものでした。

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こっちから見ると奥の煉瓦部分が斜めになっているのがわかります。

↓鉱滓煉瓦部分の炭鉱側には穴が空いている箇所がありました。建設時の足場の跡でしょうか?

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ここのエンドレスの写真というのは、どこかに残っているんでしょうかねぇ?
ぜひとも見てみたいです。

線路付替跡を往く V

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新入〜直方間から2ヶ所UP。
筑豊本線初期のこの区間は今のルートに比べ、ホンの少し西側を通っていたようです。

新入駅から直方へ向かってすぐの所にある橋梁跡。複線分の煉瓦橋台が残っています。元下り線の橋台は改築されつつも現在もしっかり現上り線を支えています。奥は直方気動車区があった場所で大変広く、長い暗渠が続いている。

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↓新入側の橋台跡。桁架替えのためか、嵩上げのためか?1960年3月に改築されている。

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↓直方側の橋台跡

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上の橋台跡から少し直方寄り、旧直方気動車区の付け根あたりに残る複線煉瓦橋台跡。ここは本線から少し西側に離れてます。この橋台の前後(画像じゃ左右)は、現在は事業所や家屋が立ち並んでいます。
昭和50年代の記憶ですが・・ここの直方側には側線があり貨車区みたいなのがありませんでしたっけ?

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↓新入側の橋台跡

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↓直方側の橋台跡

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線路付替跡を往く IV

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若宮川橋りょうの続き。

筑前植木側から新入方面を見たところ。立っている位置に旧線路があったと思われる。両岸とも橋台の跡、橋脚の跡は見つからなかった。初代は100フィート×1+40フィート×7の橋梁だったそうな。100フィートは流路、残りは河川敷部分で橋脚が7本あったんでしょうね。

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↓これは新入側から

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この位置から新入方面を見ると煉瓦橋台が残る場所が見えます。

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画像中央下にあるのが煉瓦橋台の対面側の橋台跡。その上には線路敷が続いています。

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前回のエントリーで登場したこの橋台。よく見たら中央から下だけが斜めになってました。



3線跡を往く V

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先日のエントリーに出てきた「鉄道省鉄道統計資料」には折尾〜直方間の線路増設に関する資料が載っていました。

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大正8年度版の中の改良工事工程表より。これによると増設する区間が9M57C〜14M39C、7M9C〜9M57Cとあります。
じゃ、具体的にどの辺を線路増設してたのか、表にしてみました。

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折尾〜中間の4線区間、中間〜筑前植木の3線区間をカバーしています。この時点では両区間とも複線化していたので、それぞれの増線分の工事のことと考えられます。気になるのが、筑前植木から新入(貨)の手前まで工事区間に含まれている点。JR九州の「鉄輪の轟き」P85に掲載されている「大正14年国有鉄道線路略図/鉄道省」を見ると、筑前植木〜直方間が3線になっています。前のエントリーで書いたようにここも3線区間だったのは間違いないのでは?と思いますが・・・どうなんでしょうねぇ?


3線跡を往く IV

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中間〜筑前植木間は、いつ頃3線になったんでしょうか?
廃線本を読めば答えは出てるんですが、自分で確認してしてみたいと思って、ちょっと検索・・。

で、見つけたのが「鉄道省鉄道統計資料」「鉄道院鉄道統計資料」「鉄道院統計図表」など古書。どれも著作権保護期間満了とのことなのでちょいと画像補正して掲載します。

左/1922(T11) 右/1923(T12) 〜鉄道省鉄道統計資料 大正9−13年度/鉄道省〜より

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3線化したのは1923(T12)というのがわかる。じゃ、日にちは?
同じく鉄道省鉄道統計資料内の線路増減表から

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中間〜筑前植木間が複線3M(哩・マイル)75C(鎖・チェーン)から3線3M75Cに。1923(T12)年7月1日とあります。これで解決&納得!念のため大事典で同区間の駅間距離を見てみたら、3M75Cでした。さらに遠賀川橋りょうの増線分を調べたら、同じ年に架けられてました。

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左のトラス橋が増設線。旧線の煉瓦橋脚は間近で見ると圧巻です。
この鉄橋、ある映画のワンシーンに出て来たらしい。しかも下り線なのに上り方向に列車が進んでるとか(笑)

線路付替跡を往く II

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今日は筑前植木〜新入間の線路付替跡です。

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犬鳴川の橋梁を新入側へ渡ってすぐの所にあります。ここの煉瓦橋台は植木側しか残っていません。

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複線分の立派な煉瓦橋台。上下線間の不自然な目地はなく綺麗な並び。
と思いきや・・

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旧下り線部分にカントが付いてますー。前後の線路跡は直線なのに何故?

ちなみに橋台前の道路は鞍手軌道(直方〜福丸)跡。1914年、福丸〜龍徳間開通、1915年に直方まで伸延されています。ということは、鞍手軌道敷設時に建設された橋台なのか?と思いました。で、さらに犬鳴川の橋梁を調べてみると(土木学会附属図書館)、筑豊興業鉄道開業時の単線橋梁・複線時の橋梁開通後、1912年に付替上下線と思われる橋梁が開通しています。ということは、鞍手軌道開通前からこの煉瓦橋台は存在したのか?専用軌道じゃなくて、まず道路があってその上に線路を敷いたのか・・なんせ古いもんでよくわからん(汗)

線路付替跡を往く I

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筑豊本線には開業時と現在とで線路の位置が変わっている箇所があります。
主に橋梁架替えや構内配線の変更などが考えられます。そこには今も煉瓦構造物が残っています。

まずは、新入〜直方間から。
ここは、1891年(M24.8.30)に筑豊興業鉄道により若松〜直方間が新設されたときから存在する歴史ある区間。ここは開業当時は中間〜直方間だった。その後、1893年(M26.4.28)植木シグナル停車場を設置。同年(M26.12.20)、底井野〜植木間複線化時に一般駅「植木」開業(のちに九州鉄道と合併し同名駅があったため1897年(M30.10.1)「筑前植木」になったらしい)。1894年(M27.12.21)、植木〜直方間複線化。1989年(H1.3.11)に新入駅が開業し、現在に至る。ちなみに1911年(M44.2.22)〜1912年(M45.3.20)の約1年だけ、新入仮信号所というなんとも中途半端な信号所が存在していた(何故、仮なんだ?)。位置は筑前植木から1哩とあるので、現在の新入駅とほぼ同位置か?

さて、本題。
新入駅のすぐそばにある遺構から。

●新入橋りょう

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煉瓦橋台の真上は新入駅。上下線の間に使われていない旧下り線の遺構がある。
現下り線の向うにも数線分、桁があった感じがある。新入駅が出来る前は確か側線があったような記憶が。
パラペット前のコンクリ改修は1960年と結構古い。

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↑植木側

↓新入側

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よく見るとなんかおかしくないですか? 真ん中下の方の煉瓦の目地が。

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積み方おかしいし(笑) しかもこれは下駄っ歯の跡?
上の積み方見ても特に変じゃないし・・。
単線下駄っ歯仕様で作ってたものを途中から複線仕様に積み方を変えたんでしょうかねぇ?

3線跡を往く III

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●第2堀下橋りょう

手前より上り線・撤去線・下り線。
こちらは尾尻架道橋と同じように旧複線分の煉瓦橋台が残り、上り線のみ煉瓦橋台が使用されていますが、床石は無く、コンクリートで補修されています。

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↓筑前垣生側

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↓鞍手側

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3線跡を往く II

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●第1堀下橋りょう

手前より上り線・撤去線・下り線。
上り線は前後の構造物状況から煉瓦橋台だったはずですが、カルバートに改修されてます。
煉瓦橋台は撤去された線のみ残っています。

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↓筑前垣生側

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↓鞍手側

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3線跡を往く I

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かつて、筑豊本線・中間〜筑前植木間は3線区間だった。さらに折尾〜中間間においては複々線、香月線も新手〜中間間は3線だった。急増する石炭輸送を増強していった結果であり、複線でもさばけない程の列車があったことに驚くばかりである。ちなみに筑豊本線で初めて複線化されたのは、1893年(M26.12.20)/底井野〜植木間だった。底井野とは、現在の筑前垣生駅と遠賀川橋りょうの間にあった信号所。これについてはまた後日。
時が経ち、多くの石炭列車が行き来した線路には、銀色の電車が颯爽と通過していく。その足下、上下線の真ん中には3線時代の遺構が今も残っている。では、その遺構へ行こう!

まずは筑前垣生〜鞍手間の遺構から。

●尾尻架道橋

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手前から上り・撤去線・下り。3番目に増線した部分はコンクリート製になっている。
煉瓦橋台を見てみると、自然風化のせいかワザとなのか分からないが、
ポリクロミーっぽくなっているのが面白い。

↓筑前垣生側

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↓鞍手側

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筑前植木駅・煉瓦橋台跡

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筑前植木駅といえば、その古めかしい駅舎が旅情を誘いますね。一度も降りたことはありませんが・・。かつて、中間〜筑前植木は3線区間で、当時は活気に溢れた駅だったんじゃないかな・・と想像しちゃいます。3線時の痕跡は橋梁・架道橋・踏切で確認することが出来ます。
そいつらはまた次回にして、今回は筑前植木駅に残る煉瓦橋台をピックアップ。
駅舎に面した下りホームの外側に駐輪場があるんですが、そこに小さな煉瓦橋台が残っています。延長上には駅舎があることから貨物積み下ろし線の跡と思われます。

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場所はこちら


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