今頃更新?シリーズの最後です(汗)
またまた年明けに探索したやつですが・・・室木線跡の探索を「遺構へ行こう」にUPしました。
特別、目新しいものはありませんが・・・
https://otchee.com/railroad/muroki201601/muroki201601.html
今頃更新?シリーズの最後です(汗)
またまた年明けに探索したやつですが・・・室木線跡の探索を「遺構へ行こう」にUPしました。
特別、目新しいものはありませんが・・・
https://otchee.com/railroad/muroki201601/muroki201601.html
福岡県内が大幅に更新されたグーグルストリートビュー。
いろんな使い方がありますが、レンガスキーとしては煉瓦製の鉄道構造物を見ない訳にはいきません。
現地に足を運ばなくても、ある程度(笑)見学出来ます。
なぜ?そんな所走る?みたいなのもあり、なかなか楽しめます。
ストビューの車は何回かすれ違いましたが、天井に全方向撮れるカメラが付いてるので目立ちます。
あのカメラって昇降可能なんでしょうか? 高さ制限のある煉瓦橋梁を通過してる所もあれば、避けてる所もあり・・。
筑豊本線
●新入橋梁/http://goo.gl/maps/1ITT5
●若宮川橋梁手前付近/http://goo.gl/maps/fEIwI(旧線跡)
鹿児島本線
●延命寺架道橋/http://goo.gl/maps/MSF3Q
●立屋敷橋梁/http://goo.gl/maps/691rY(旧線跡)
●土力橋梁/http://goo.gl/maps/54bHI
●谷橋梁/http://goo.gl/maps/s3xh8
●石松橋梁/http://goo.gl/maps/zo3wK(内部奥のアーチは城山越えの旧線跡)
●床田橋梁/http://goo.gl/maps/A2iLV
●長町橋梁/http://goo.gl/maps/ondyf
●長町第一橋梁/http://goo.gl/maps/UkGFV
●室口橋梁/http://goo.gl/maps/mHclm
●刈目川橋梁/http://goo.gl/maps/Wgs78
大蔵線
●尾倉橋梁跡/http://goo.gl/maps/L6jzc
香椎線
●浜男第4号橋梁/http://goo.gl/maps/cN1OC
日豊本線(名称がわからんのばかりでスンマセン・守備範囲じゃないので・・・)
安部山公園〜
●不明/http://goo.gl/maps/KJdQW
●不明/http://goo.gl/maps/814qP
行橋〜
●第2大橋橋梁/http://goo.gl/maps/DDrJh
南行橋〜
●不明/http://goo.gl/maps/hPtM0
●不明/http://goo.gl/maps/EVSAa
他にもあるかもよ。
幼少時代に何度も車窓から見た、鯰田炭坑貨物支線の橋台跡。鯰田炭坑駅側の煉瓦橋台はかなり前に無くなってしまったけど、本線のすぐ横にあった鯰田駅側の橋台は不明なままやった。必ずあの薮の中に何か残ってるはず・・・・そう思って何年経ったやろう・・・。上の写真は右側が鯰田駅です。
いつだったか、博多行電車に揺られてボーッと支線跡を脳内トレースしていたら、怪しげな構造物が目に入ってきました。一瞬だったので確認する間もありませんでした。これはリベンジすべしと、子供たちと大回り乗車した時に凝視してみたら、なんと橋台跡でした! しかもコンクリート+煉瓦ですぜ。たまたま線路脇の草が刈られており、さらにいつかの積雪の影響で枯れ草がダウンしてたのもあって、今までにない見やすさになっていました。
上り列車からは確認出来ないので、下り列車に乗って、以下の目印を参考にしてください。
全神経を集中させて、刮目せよ!!
「橋台跡はココ」が被って見えるのは、位置関係の参考のため。
あ、今からモジャるので見えなくなるかもしれません・・・・
鯰田炭坑駅は、その名の通り「鯰田炭鉱」まで、鯰田駅から延びていた貨物支線の貨物駅です。鯰田〜鯰田炭坑間の距離は、40C≒804m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典でも 0.5M≒804m)。営業期間は、1909年1月1日〜1945年6月10日。1945年からは鯰田駅に併合され構内として存続していました。おそらく炭鉱閉山まで使用されていたと思いますが、詳細な廃止日はわかりません。
ここは月刊ブログか?と思われるほど放置気味(ネタはあったがやる気の問題・・・ツイートはしてたけど・・・汗)だったところ、とんでもないモノが飛び込んできました。
工事現場から小倉鉄道(→添田線→日田線→日田彦山線)の煉瓦橋台跡が出てきたと、べーやん様から直接メールを頂き、メールを確認したのが7月26日朝でしたので、これは急がねば・・・無理してでも行く価値アリと思ったので強引に行ってきました。
素晴らしい! こんな立派な煉瓦遺構が駐車場の下に眠っていたとは!!
google mapで見るとこんな感じ。この状態じゃ、こんなお宝があるとか分からんばい。
画面奥が東小倉側。手前が石田側になります。レールの位置は煉瓦橋台からある程度予想はできますね。現在の道路よりも少し高い位置を通っていたようです。周辺の線路跡上に建っている家屋を観察すると、やはり少し道路より上なので、当時は盛土区間が続いていたのかもしれません。そして、家屋の下には他にもお宝が眠っていたり・・・・。橋台がこの位置ということは跨いでいた川はもう少し幅が広かったのかもしれませんね。想像は尽きません。
今後、小倉経済新聞によると、この橋台は7月28日には撤去されて宅地化されるようです。数少ない遺構なだけに非常に残念ですね。施工業者もまさかこんな「お荷物」が出てくるとは思わなかったでしょう(汗)
せっかくなので、他の煉瓦遺構も見てきました。
煉瓦橋台発掘場所から石田側へ少し進んだところに、煉瓦橋台が残っています。
こちらは結構知られているので、見たことがある方も多いでしょう。
目の前の交差点を右に曲がり、真っすぐ進むと今回出てきた現場に出ます。
片側だけに隅石が積まれています。
鋭角になっているので装飾の他に補強の意味があるのでしょうね。
まだまだ眠ってるお宝がありそうですねぇ。
たまたま用事で佐賀県の大町・武雄方面に行くことになったので、少しググってみたら、なんと大町町は炭鉱の街だったんですね。炭鉱遺構萌えな諸兄・諸姉には基本情報だったのかもしれませんが、私は全く知りませんでした(汗) てことで、所用を済ませて第一目標の発電所跡へ行ってみました。
細く入り組んだ道、高低差のある土地に密集する住宅、古びた個人商店・・・なんとなく忠隈のボタ山界隈を通っているような、どこか懐かしい不思議な感覚になりました。なんと表現したしたらいいんやろう・・・山後の炭鉱街独特の雰囲気がそこかしこに感じられました。
街中を山側に向かって進んで行くと目の前にレンガスキー悶絶の遺構が見えてきました。
大町煉瓦館。元々は杵島炭鉱の変電所だった。
案内板によると昭和2年から稼働していたそうです。炭鉱時代の建物としては唯一残っているそうな。
入口前に立ち見上げてみる。思わずニヤリ。目立った装飾は無いけど美しいねぇ。
両サイドの窓や入口の上部にある△状のやつは庇の跡か?
ドアにはご自由にお入り下さい的なことが書いてあったので、もちろん入らせて頂きますよ・・・とドアノブを押すと開かない。あぁ引くのか。そう思って引くけど開かない・・・。なんや鍵が閉まっとるんかい・・・ドアをガタガタガタさせ残念がる私。せっかく来たのに門前払いか・・・しばし沈黙・・。
「あ、引き戸やん」 いやぁ、誰も居なくて良かったっス。この一連のボケは絶対にヒミツだぞ(笑)
↑建物内部はこんな感じ。一般的には内装の剥がれ具合が少し不気味に感じる廃墟かもしれまんが、私の場合、どことなく教会のような神聖な場所に思えました。小さな窓から差し込む光が凄くイイ雰囲気を醸し出してるんですよ。
↑壁に残る碍子が変電所だったことを教えてくれます。
↓そこの外側にまわると碍子が付いた送電設備?が残っていました。
今回はここだけでしたが、色々調べていくと他にも遺構が残っているようです。
いつかまた再訪してみたい所です。
blue fieldさんとちくまえ。さんがUPされたので、じゃ私も・・・と思ったら、あまり写真を撮ってませんでしたorz たぶん煉瓦に萌え狂って写真撮ることを忘れてたんでしょうな・・・。実は3人で同時にUPしましょうか?なんて話してたんですが、やらなくて良かった(汗) ちなみに行ったのは3人ともバラバラで別の日です。
線路跡の歩道から薮の中に獣道ような所があり、側線跡がバッチリ見えていたので、そこから先へ入ったらお宝煉瓦遺構があった・・・みたいな(笑)で、分岐器跡から抜けるという、わざとらしいルートでコソーリ見学しました。
●2012年1月29日
八角形の煉瓦遺構には参りました。これだけでご飯が3杯食べれそうなスペシャルオカズです(笑) とある方の話によると煙突の跡だそうで、なるほど、言われると確かにそう見える。他にも煉瓦遺構が掘り起こされてて、これらがつい最近まで埋まっていた事に驚くばかりです。スペシャルポンプの件だけで終らなかったんですね。
●2012年1月4日
目尾駅の分岐器跡です。
●2009年12月6日
分岐器跡の奥ではこんな物を発掘してました。
●この辺一帯で何か始まった頃・・・
https://otchee.com/phoblog/2009/03/post-29.html
全部埋めてしまうとは少し勿体無い気がしますねぇ。
せっかくなので一般開放すれば、我々のような物好き素人が集まったのに。残念。
また掘り返しましょう。誰が?(笑)
今日も珍しく夕方までフリーだったので、先日の東小倉界隈探索で活躍した折畳み自転車を積んでブラブラしてました。帰りに遠賀川の土手を通っていると、筑豊本線で撮り鉄さんの姿をチラホラ見かけました。珍しい、こりゃ何か来るな!? そう思って、とりあえず目尾駅跡前(笑)の嘉麻川橋りょうが見える土手に上がってみると、ここにも撮り鉄さんが数名いました。何が来るんですか?と尋ねようとしたところ、鯰田駅方向から見覚えのある屋根の車両が4両、こっちに向かってくるのが見えました。あの屋根は66,67!? 急いで車を降りて、ヘッポコデジカメで連写!!
斜材被りまくりの画像となりましたが、久しぶりに66,67を見ることが出来ました。しかも国鉄色。
あれ?国鉄色は1編成だけじゃなかったんですね。
まさか2編成の国鉄色を拝めるとは思いませんでした。
ヘッドマークが付いていましたが、画像を拡大したら、なんとなく読めました。「西海」?
おでこの取って付けたような「急行」が不自然ですね・・・。
直方在籍末期に前面幕が行先表記になったから、その時から無かったんでしょうね。
そこに居た撮り鉄さんに話しかけみると、イベント貸切列車だそうで、長崎・佐世保から出発した列車が肥前山口で併合して冷水経由でこっちまで来たそうな。彼らは冷水から追いかけてきたそうで、冷水では50人近く居たとか・・・。さすがは名所ですなぁ。明日は門司港から日田彦山線・後藤寺線・冷水経由で戻るらしい。
で、今日はどこに行ってのか。
近日中にまとめます。
鹿児島本線では各所で開通時、増線時の煉瓦構造物が、今もその役目を果たしています。
先日UPした延命寺川の橋りょう跡から少し鹿児島本線側へ道を進むと、現役の煉瓦橋台がありました。
●延命寺架道橋
写真は、複線分の煉瓦橋台の中心(小倉側)を撮ったもの。
上から下に亀裂が入っています。書かれた日付は平成のものが多いですが、
よく見ると、62.5.14とか46.1.1?とか古いのもあります。
ふと、この橋台もゲタ歯の痕跡があるんかいな?・・・と思ってじっくり観察。
煉瓦の積み方は一般的なイギリス積み。
亀裂が入った部分、長手が積まれた各段ともに写真のように小口が2個挟まれています。
となると、小口の段と長手の段で櫛形になり、ゲタ歯状態になります。
櫛形の線は逆向きも考えられます。
単線開通時はゲタ歯で施工されたのか、たまたまそういう並びになってしまったのか
・・・真相はわかりません。
ちなみに開通は、明治24年4月1日、複線化は明治30年4月20日。
以前、折尾付近で撮った橋台(一番橋)の中心にはゲタ歯の痕跡はありませんでしたが、
上下線の間の煉瓦は変な積み方をしていました。
●筑前垣生・底井野
筑前垣生〜中間間も3線だった時がありました。島式ホームの筑前垣生駅に立ってみると複線はわかるのだが、もう1線分はどこ?と思われる方がいるでしょう。ホームがある場所にもう1線分があったようなのだ。
筑前垣生駅が開業したのは1935(S10)年4月26日。この時はまだ遠賀川橋りょうのすぐ横にあり、1951(S26)年1月20日に0.3km直方寄り、現在の位置に移転してきました。3線撤去は1954(S29)年8月31日とされていますが、移転時には既に撤去済みでそこに現在のホームを造ったと考えられます。
それ以前に若松〜直方間が開業した2年後、1893(M26)年12月20日に遠賀川橋りょうと現筑前垣生駅あたり(若松起点10M05C≒16.19km)に底井野信号所が設置されました。その後、1912(T1)年8月28日に0.1M(160.9m・マイルチェーンを簡略化しているので実際は前後すると思われる)直方寄りに移転しています。筑前垣生駅が開業した1935(S10)年の9月21日に廃止されています。
→筑前垣生あたりは3線→複線化されていたと思われ《直方側両白線間の黄線》にホームを設置。
→上り線は《直方側上段白線〜青破線〜中間側黄線》に配線変更か?
1974(S49)年の空中写真では、遠賀川橋りょう新上り線設置に伴って撤去された旧上り線の線路敷と今も残る宮前架道橋の桁が写っています。筑前垣生駅にはまだ跨線橋が無く、昔ながらの線路を渡って駅舎へ向かうスタイルですね。米軍写真では駅横の踏切はまだ無くて、少し直方寄りを渡っていたようです。
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