熊西の謎のアレ

Category:鉄道 コメント(8)

先月は記事をUPするヒマがありませんでした。Macの前には座ってたんですが・・・(汗)
気が付いたら、もう2月ですな・・。

さて、昨年末の忘年会前に歩いた西鉄北九州線跡ですが、熊西手前で筑鉄に合流して、
線路横の道路を歩きながらレールを見ていたら、何かアヤシイ物を発見しました。

kumanishi_p2.jpg

かつて筑鉄と北九州線の分岐と熊西電停の間付近、ちょうどドンキの裏あたり?です。
ヘッポコズームで拡大すると形がよくわかります。

kumanishi_p3.jpg

これの他にもう1基ありました。それと、何か乗っていたっぽい土台跡が2基。

kumanishi_p4.jpg

パッと直感的に、私の好きな鉄管装置のアレ!?・・・・と思いました。
ちょっと自信が無かったので、年が明けて調べてみたら、やはりアレでした。
(鉄道信号図集(鉄道省大臣官房研究所編)/鐵管裝置より・鉄道時報局(1923))
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979096

kumanishi_p1.jpg

使われ方としては下の写真のような感じ。(↓雨ヶ窪・2005)

kumanishi_p5.jpg

しかし、何であんな所にコレがあるんでしょうか? 場所的には、かつての分岐と電停の間ですし・・・。昔は廃止当時とは比較にならないほどの超過密ダイヤだったでしょうから、分岐が手動ってのは考え難いなぁ。それとも、折尾から筑鉄に直通するために、渡り線があったんでしょうか? 誰か知ってます?

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コメント(8)

>ひろくん28号さん
コメントありがとうございます。
ストライキでの折り返し運行のお話、とても興味深く読ませて頂きました。
今では公共交通機関がストで止まるのは珍しくなりましたが、一昔前は酷かったようですね。
私は子供でしたから直接影響はありませんでしたが、私の父も小倉勤務でしたので大変のようでした。
いやぁ、渡り線は全く想定外な利用方法でした。貴重なコメント有難うございました。

あ、そうなんですよ、永犬丸にもあったと、見たか聞いたかしました。
通ることがあれば確認したいと思います。

たったアレだけの痕跡で色んな話が聞けて面白いですねぇ。
やはり、渡り線は存在してたということですね。皆さんありがとうございます!

旧貞元の遺構、まだ残ってますね。
昭和40年代の半ばまで渡り線があったと思います。
当時、幼稚園児で永犬丸に住んでいて、よく筑鉄を利用していました。
ある時、ポイント音がなくなったと気が付いたことは、覚えています。

その利用法ですが、当時は頻繁にストライキが行われていました。西鉄も筑鉄もストライキを決行していれば、両方とも動かないので問題ないのですが、当時、筑鉄は優良企業だったようで早々に妥結、ストライキ中止になってました。この場合、電車が貞元折り返しとなったらしいです。
父が当時小倉に勤務しており、ストライキの度に貞元から黒崎駅まで歩かないといかんと言っておりました。
その後ある時期からは、両社間の調整がついたのか黒崎車庫前折り返しになったと思います。
父も昨年他界して再確認はもうできませんが、昔から、筑鉄は台風でも、雪でも、ストライキでもなかなか止まらなかったのです。

筑鉄の渡り線といえば、永犬丸駅の三ヶ森側にも渡り線の基礎のようなものが、まだ残っています。

>巧也さん
お久しぶりです。
この画像検索してましたけど、気が付きませんでした・・・。う〜ん見えないこともないですねぇ。同じサイトの写真に反対側から見たショットがありましたが、それには無かったですね。画像資料揃えて現地で見比べなきゃいけませんね!

ご無沙汰です
電車の右手って渡り線に見えなくもないですね?

http://cedarben.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_28d/cedarben/s45E8B29EE5858304R-28e3c.jpg?c=a1

>tetsu100さん
こちらこそ、初めまして。大変興味深い書き込み有難うございます。
やはり渡り線があったんですね!驚きです。
私も画像検索をかけましたが、筑鉄との分岐付近は上がってくるんですが、渡り線があったであろう場所の画像は、なかなか出てこなかったんですよ・・。で、結局わからないままでした。

となると、パイプキャリアの痕跡があるということは、上下線の切り替えが同時に行なわれるような構造になっていたんでしょうねぇ。やっぱり手動だったんでしょうかねぇ。じゃ誰が?色々と想像してしまいますね。

渡り線を使用して、折尾〜貞元〜楠橋という運行があったかもしれませんね。早朝ならば通勤・通学用でしょうか。貞元での乗り換えの煩わしさは解消できますね。

私も当時は筑鉄線内は連接車オンリーだと思っていたんですが、途中(楠橋?)までは単行もあったようですね。逆の話になりますが、私は折尾電停をよく利用していたんですが、たまに連接車が入線してビックリしたのを覚えています。

この記事の時に行って以来、再訪はしていないので、私ももう一度よく確認しようと思います。ありがとうございました。

はじめまして
『筑豊電鉄 熊西 渡り線』で検索をかけていたら
こちらへ辿りつきました

昭和45年頃迄は熊西(当時:貞元)に渡り線が
ありましたよ、記憶があります

それでNET上で何か情報はないかと探していた訳なのですが・・・

当時、僕は小学校低学年で三ケ森に住んでいて
親が折尾で商売をしていたので
貞元電停は本当に馴染みのあるところでした

幼少の頃でしたので
僕が乗車するのは休日の昼間くらいで
渡り線を電車が渡っていく姿は見たことはありません

昭和50年の新幹線博多開業の頃には
渡り線はもうなかったかと思われます

昭和45年頃のある日
筑鉄内では連接車しか見たことが無かったのですが
旅行に行くために早朝に三ケ森から
筑鉄電車を利用しようとしたら
単行のボギー車がやってきたんです

折尾行きはほとんど単行
筑鉄は連接車だったので、びっくりしたのですが・・・

折尾と筑鉄内を直通なんて考えられなかったのですが
ひょっとしたら早朝などには渡り線を
使っていたのかもしれません

それにしても、痕跡がまだあったのですね
今度、熊西に行ってみようと思います

長文、失礼しました

>blue fieldさん
既にさっかーさんとは合流済で、がんさんと3人で歩いてました。
で、たまたまレールを見てたら、目に入ってきたというか何と言うか・・・偶然です(汗)
鉄管装置の土台部分は筑豊本線などで、たま〜に見かけてました。
今でも残ってるんかなぁ・・・。

直方、新飯塚、飯塚などの分岐・ターミナル駅の構内に張り巡らされた鉄管に萌え萌えしてた子供時代(笑) 特に最後の写真に写っている「パイプコンペンセーター」の形状は特に魅力的でした。変な子供やね(汗)

先月は私も1件のみ
PCの前には少しは座るけど、
仕事とちょっとブックマーク徘徊したら眠気が・・・

これはさっかーさんとの会合に行く途中ですか?
それにしてもよく気が付きますね。
僕は現物見てもたぶん素通りです(汗

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