当時の漆生線(廃線)の終点であった漆生駅から、山田市を抜け、日田彦山線豊前川崎駅と添田線(廃線)大任駅を経由し、田川線(現・平成筑豊鉄道)油須原駅を結ぶ、全長27kmの路線計画でした。計画自体は、大正11年の改正鉄道敷設法別表に記載されている、九州ノ部・110ノ3「福岡県油須原ヨリ上山田ヲ経テ漆生附近ニ至ル鉄道」までさかのぼります。当初の目的は稲築・山田方面の石炭を苅田港への輸送することでした。昭和32年7月に国鉄によって工事が始まり、昭和39年には鉄道建設公団が工事を引き継いで、昭和41年3月10日、漆生〜嘉穂信号場間2.6km・上山田〜豊前川崎間11.5kmを部分開業。同時に才田、熊ヶ畑、真崎、東川崎駅が開業しました。油須原線計画の一部として開業しましたが、線名はそれぞれ、漆生線・上山田線を名乗っていました。この時、豊前川崎〜大任〜油須原の約10kmについても工事は進められていました。
ところが、周辺炭鉱の閉山に伴って、油須原線による石炭輸送の必要性は無くなり、漆生〜豊前川崎間開業後、一旦中断されていた工事は昭和45年に工事中止になりました。しかし、目的地である苅田港に日産自動車の工場が来て、筑豊からの通勤客輸送、筑豊への関連企業誘致が見込めるのでは!?ということで、目的を石炭輸送から切り替え、昭和48年度から工事が再開されました。建設予算は増えていたものの、使ったのはほんの僅かだけで、残りは返上していたといいます。国からの金で新線をせっせと作る公団と赤字で借金を抱えていた国鉄とで考え方に大きな差があり、国鉄は赤字確実となるこの線の受け取りを拒否し続けました。結局、昭和55年の国鉄再建法により、開業しても利用客は見込めないということで工事が凍結されました。
この時点で国鉄線との接続付近を除けば、全線完成が見えた状態で、線路の敷設も進んでいました。新設部分に踏切は無く、全て立体交差。山はトンネルでぶち抜き、平野には大築堤を築き、コンクリート製の枕木に高規格レールを敷く。当時の地域事情とは正反対のデラックスな路線がそこには作られていました。その後、放置が続き、中継ポイントの一つであった大任駅がある添田線が昭和60年3月31日限りで廃止。昭和61年3月31日限りで、漆生〜嘉穂信号場間を含む漆生線が廃止され、さらには昭和63年8月31日限りで、嘉穂信号場〜豊前川崎間を含む上山田線が廃止されたことにより、完全に浮いた形となってしまい、事実上列車を走らせることは不可能になり、未成線となってしまいました。これが幻の鉄路と言われる所以です。
その後、JR移行後、国鉄清算事業団の管轄にあったこの線は、平成元年に沿線町村の川崎町、大任町、添田町、赤村に無償譲渡されました。
鉄道敷設の意味の時代的環境変化、国鉄から鉄建公団への引き継ぎなどで、橋台・橋脚・桁などの構造物の設計者が違っていたり、設計荷重が違っていたり、色んな面で興味深い希有な路線です。
彦山川橋りょうから豊前川崎側の盛土がどんどん壊されています。すでに福田トンネル川崎側のトンネル坑口は埋められて、その上には新しい道路が出来ていました。炭鉱の遺構はまだ・・・
2000年4月撮影。好天に恵まれたゴールデンウイーク初日の4月29日、未成線、油須原線最大の遺構、彦山川橋りょうに今年も鯉のぼりが泳いでいました。川崎側の土手下から見たところ。他の・・・
上山田線を経て豊前川崎に到達した油須原線は、豊前川崎を彦山方面へ少し下った辺りから分岐していた。画面中央に小さく見える勾配票のある所が日田彦山線。右へ進むと・・・
このサイトを見ていただいた方から、以前は行き止まりで工事中だった所が開通しているとの情報を得まして、2002年6月3日に行ってみました。最近、ここらへん来てなかった・・・
2003年最初の廃線探訪は、上山田線再トレースと油須原線跡探訪でした。というのも、過去に油須原線跡で開催されたトロッコイベントを掲載されている相互リンク先の・・・
平成筑豊鉄道15周年記念イベント「へいちくフェスタ」の赤駅の目玉イベントとして、油須原線跡を利用したトロッコ列車が開業しました。当日配布された資料には、当サイトの画像(地図)が掲載・・・
油須原線を再トレースしてみました。前回の分と比較しながら、未掲載の部分も含めたものです。日田彦山線と分岐してすぐにあるコンクリート橋はまだ残って・・・
今回はT字路分断部分(1)から未踏部分をアタックしてきました。今回の探索隊/倫堕藪将軍、分オイ、がん★、おっちーの4名。上画像は毎度おなじみ国土交通省のWebGISから・・・
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油須原線にレールが敷かれていた頃の貴重な写真をご提供頂きました。福田トンネル〜彦山川橋りょう〜大任駅手前までの線路が確認・・・
1995年。まだこの駅舎も8年前(1987年)のままでした。油須原線の日田彦山線からの分岐点。ここもほぼ変化なし。上の写真の地点から大任方面に進んだところより。雑草の先、住宅の手・・・
1987年・1995年の写真をほぼ同じ位置で比較したものです。