鴨生駅を出ると、坂道を上下する。切り通しを埋め戻して、もともと線路をまたいでいた橋の部分を交差点にしたようだ。さらに進むと、築堤に出て、川を渡っていたガーダー橋があったのだが・・
ショック!ガーダー橋が無いッ!
最近まで残っていたガーダー橋が無くなっているではないか!ガーダー橋の横にあった橋も改修され、きれいな「昭和橋」になっていた。橋の欄干にはSLのイラストが貼ってある。鉄道遺構が跡形も無く消えているのに、このイラストだけがここに鉄道があった事を語ってくれている。おもわずグッとくるものでした。
線路跡の道を進んでいくと、またいかにも駅前って雰囲気の場所にに出てくる。油須原線計画延伸前の終着駅漆生駅跡だ。ここも漆生駅跡公園として整備されており、線路状に敷き詰められたブロックやSL型の遊具を見ることが出来る。公園の下の壁には当時を偲ばせる写真が展示してある。
ふと足元を見ると漆生線跡地を示すものが。ここもずっと後世に伝えていってほしいものですね。この公園には漆生中央公民館も建てられていた。たまたま布団を干していた、公民館のおばあさんに当時の話を聞くことが出来た。やはりここもたくさんの側線、引き込み線があったようで、炭鉱全盛の頃は、そりゃ凄かったらしい。長い駅構内は変ってしまったが、駅舎のあった方は全然変ってないそうだ。漆生から延びていた稲築駅までの貨物支線のことを聞きそびれてしまった。
公民館駐車場より、おばあさん曰く変っていない駅舎跡方面を望む。画面では見えないが、右端にある古びた橋と商店がマッチして風情のある光景だった。
公園下の壁に埋め込まれている当時の写真の説明書き。
以下はこの内の何点かをピックアップしています。
駅名標の前には踏切の警報機と遮断機、レール、車輪がモニュメントとして保存されている。こういったものでは珍しく?落書きもなく、なかなか良い状態で保存されていたのには嬉しかった。
廃止直前の漆生駅。駅舎がいい味だしてます。駅の字が驛になっていたり、入口の電灯やなにげに停めてある自転車もいい感じ。
戦時中はものすごい量の石炭を掘り出し、筑豊からは若松、戸畑、門司などに運ばれていたという。駅構内の炭鉱施設は巨大なものが多く、また、そこから発送される膨大な量の石炭車の様子を見ると、いかに鉄道が筑豊の・・・いや、日本を支えていた大動脈であったかというのが感じられる。私はこれら巨大な施設群の方が、今の近代的な工業建造物よりも魅力的に感じるのはなぜだろう?
漆生駅をDE10ディーゼル機関車に牽かれた、何十両も連なった石炭車が走る様子。右側の側線にも同じように石炭車が連なっている。私がまだ小学生だった頃も数はこんなに多くはなかったが、石炭車を見ることが出来た。筑豊本線の踏切の前でよく数えていたなぁ。
石炭輸送衰退後は一転して、典型的なローカル線へと転落してしまった。子供の頃は鹿児島本線・筑豊本線をよく利用していたので、写真のような1両で走る列車に妙に憧れていたこともあった。その後、乗るのが最初で最後となった「添田線」で初めて1両を体験するのでした。夕闇せまる中、薄暗い車内に子供達の声が響いていた情景が今も思い浮かぶ。
写真左側の信号の奥にある商店とタバコ屋は今も健在で、当時の駅の位置関係がつかみやすい。
筑豊の路線の中で唯一未乗車だったのが漆生線だった、他の線区は近郊区間大回りなどで、乗りつぶしていたが、乗り継ぎの悪さから、ずっと見送りしていたのがマズかった。大回り区間に上山田線全通を組み込むのも頭を悩ませたが・・。今までこういったサヨナラ列車に乗ったは、後にも先にも「勝田線」だけだった。