藪が終了した地点より麻生釣駅方面を望む。(J地点) 実はホームの外れであり、旅客軌道敷き跡は左の藪の中である。この地点でのカウンターは7.97kmを示しており、本来ならば麻生釣駅を通り過ぎているはずの距離を走っている。勾配も殆ど無くなったことから再度駅跡を目差すと三週間前に訪れた記憶のある駅跡に到着。90mの距離で、走行時間は1分足らずだった。
現役当時の駅付近の画像は多からず存在し、出来る限り入手しておいたので変遷の度合いを比較すべく可能な限り同アングルの撮影を試みた。とは言え、手を入れられずに放置同然で現存している敷地の藪化は想像を絶する状態で、藪をかき分けながらの撮影には限界があった。特に旅客ホームとその線路敷き跡は藪化が著しく、藪漕ぎしながら踏み入っても地面の状況すら把握できない状況であった。藪を構成している植物は多種に渡り、セイタカアワダチソウとススキをメインにしながらイバラさえ繁殖している始末で、構内踏切から遠い宝泉寺寄りのホームなどは松の木までが成長していた。画像は駅の玄関口である正面階段。
階段を登って直ぐの駅敷地。
麻生釣駅は映画(1978年公開の寅次郎わが道を行く)にも登場しており、その中でホームの南側から撮影しているシーンがある。 畑の中にポツンと設けられた駅のイメージは変わらないが、駅名標裏の景色は鬱蒼とした森の中のイメージとかけ離れている。この時点ではホーム北側にも貨物ホームか何かのコンクリート製のホームの類が長く設置されているのが見えているが、画像を拡大しても特定できなかった。少なくとも現存している事は無いと思われ、入手した他の画像にも写っていないために真相は迷宮入りである。現在ではこの撮影位置まで寄りつくことすら困難であるため、出来るだけそれに近い位置から撮影したのが右の画像である。 撮影位置は現役時にゴミ入れのドラム缶が置かれていた辺りで、撮影方向は駅名標の裏手方面である。
ホームのほぼ中央あたりからの撮影。 雑草だけでなく、樹木が生長して藪というより雑木林と化している。
上の画像を撮影した足元にはホームの石垣が残っている。
昭和51年の航空写真から切り抜いた駅上空の様子。 到着して自転車を停めた位置は駅舎右側の道路である。航空写真を見る限りでは駅舎の東側は草原と言った面もちで、雑草だけでなく松の木々に覆われた現在からはとても想像できない程広々としていたと思われる。
上から3段目の画像内、ブルーのネットの直ぐ奥に残っていた水路状の遺構。 位置的には待合室付近に相当すると思われる。
駅裏には綺麗に植林された杉山が見られるが、航空写真では軌道と山までは結構広い土地があり、かなり綺麗に手入れされている様に見える。 LD(寅さん)のジャケットを見ると、この時点で荒涼とした印象であり、徐々に手が入れられなくなって荒れ地と化したものだと推測される。
一頻り駅跡の散策を終えたが、前回ひとつだけ気になる建築物があった。 付近には民家が全くないと言われていたが、駅の直ぐ西隣と正面に居宅の跡を発見していたからである。西隣の家には壊れた風呂が放置されており、五右衛門釜がそのまま放置されていたのが印象に残っていた。現役当時の航空写真にもこれらはハッキリと写っており、「さよなら宮原線ツアー」の写真にも右手奥に記録されている。 宮原線沿革史を見ると昭和36年10月1日に当該駅の駅員が無配置とされた記録がある。逆に考えると、それまでは駅員が配置されていたことになり、駅長及び駅員家族の官舎であった可能性が濃厚である。昭和30年代までの国鉄時代の駅は無人駅の方が珍しく、西屋敷のように信号所から昇格した駅以外は最低でも二人の駅員が配置されていた。また、単身赴任等という制度が無い時代の人員配置は家族ぐるみの転勤が当たり前で、職員の家族が生活できるだけの宿舎が提供されるのが普通の時代であった。同時に職員の旅客運賃が無償であったり、家族の運賃が半額であったりと、労働者の福利厚生も充分すぎるほどに確保されていた時代であったからである。
ここまで散策すると残りは宝泉寺駅跡までの帰路だけである。一度国道まで取り付け道路を進み、国道を一気に下ることにした。 取り付け道路の距離は140mであった。
国道から見た取り付け道路入り口の様子。 国道を利用しての帰路は全域でかなりの下り勾配になっており、殆どペダリングすることなく15分程で宝泉寺駅跡に戻ることが出来た。途中の最高速度は45.6km/hを記録し、麻生釣駅がいかに標高の高い位置に建てられていたかを示している。尚、取り付け道路入り口から宝泉寺駅跡までの距離は5380mで、国道の方が軌道距離よりも2km以上短いことになる。つまり軌道は国道よりも2km以上迂回しながら高度を稼ぎ出していたことになる。
後半の走行軌跡。