明治41年7月1日、当時の帝国鉄道庁九州線(今のJR筑豊本線)中間駅より香月駅までの3.5キロを開設。同時に2.7キロ地点に岩崎駅も開業。明治42年10月12日、筑豊本線と線名設定。明治44年10月1日、旅客扱い開始により、香月線と線名変更。明治45年1月7日、1.3キロ地点に新手駅開業。大正元年11月11日、楠橋駅開業。大正8年12月11日、楠橋駅廃止。大正10年12月11日、石炭輸送拡大のため中間〜新手間3線化。炭鉱全盛時「門鉄屈指のドル箱路線」の肩書きを持っていたが、周辺炭鉱閉山後は、すっかり寂れてしまい「第一次廃止対象路線」という屈辱的な肩書きを背負うことになってしまう。昭和43年に、中間市は「路線は中間市街を分断しており、地域発展には邪魔な存在でありことから、鉄路を自動車輸送に替える措置を取って欲しい」という内容の廃止要望書をすでに出していたようである。そして、昭和60年3月31日限りで廃止となった。廃止後、旧沿線周辺にはかつての炭鉱跡地が新興住宅地へ姿を変えて、線路跡のほとんどが道路化されている。中間駅〜新手駅手前付近までは「屋根のない博物館」と称した緑道となり、その先から岩崎駅跡付近までは道路になっている。筑豊電鉄とのクロス付近には枕木製の柵が残っているが、いつ消えてもおかしくない状況である。岩崎〜香月の一部で線路敷・橋台(煉瓦製・コンクリート製)が残っている。3線時代の一番西側の線路跡は、クロスしていた筑豊本線下り線の煉瓦橋台のガーダー橋、そこから新手側にある民家の中に小さな煉瓦橋台を見ることができる。大正4年から昭和29年まで、鞍手軽便鉄道(最終的には筑豊鉄道)が香月駅から野面駅まで営業していた。
現在電化工事の進んでいるJR中間駅の出口を出て右側に駐輪場があり、その一角にこの石碑は建っている。ちょうど駅を降りたばかりの女子高生が、これ邪魔っちゃと言わん・・・
ここの線区も部分的にはよく通るんですが・・ってことで久しぶりに全線再トレースしてきました。スタートはいつものように起点地の石碑がある中間駅。廃止が1985年。もう20年か。・・・
中間〜新手間は筑豊本線を挟むようにして2ルートあり、あわせて3線区間になっていた(1912年) ポインタを載せるとルートが表示されます。道路や街並、建物の向きからもなんとなく・・・
最近香月線跡をよく通るので調査してみました。中間駅の石碑。後の「白いポスト」の方に目がいってしまいます(笑) 投函してるのを見たことがありませんが・・。中間を出て筑豊本線と分かれると・・・
2016年1月4日、香月線跡へ廃線パトロールに行ってきました。駅名標は風雨に曝されているので劣化している感じです。空白部分に貼られていた当時の駅の写真も剥がれてしまっています。本物は別・・・
貴WEBを拝見させて頂いております。私は幼い頃、中間駅の近くに住んでおり、家から見える筑豊本線のD50の重連が牽く貨物列車等を見て育ちました。又、香月線も良く列車・・・
最近香月線跡をよく通るので調査してみました。中間駅の石碑。後の「白いポスト」の方に目がいってしまいます(笑) 投函してるのを見たことがありませんが・・。中間を出て筑豊本線と分かれると・・・