六坑〜筑前宮田間の八木山川橋梁跡そばにある小さな水門に、隠れるようにこの橋台は残っている。ちょうどここの手前側に大きな家があり、そこを通っていたようである。その先は六坑〜筑前宮田間の道路化されたところに出る。そこから分岐していたのであろう。分岐点と思われるところに立つと、筑前宮田駅方面へ真っ直ぐ向う道路といかにも田んぼの中を斜めに線路がありましたというような、前出の大きな家の壁が右斜め方向に続いている。ここから庄司方面には八木山川の土手のそばを左にカーブして八木山川と直角にクロスしていた。その途中には小さな溝を渡っていた土留めのようなコンクリート構造物があった。八木山川の橋梁があったところのコンクリートの護岸が他とは模様が違っていて、そこにあったことが想像できる。
その八木山川橋梁を渡ったらすぐにあるのが、このコンクリート橋。中央の草むらの中に隠れてよくわからないが、近づいてみると苔むしたコンクリート橋が眠っている。ここから団地の裏の道路を左にカーブしながら進んでいた。団地の正面には筑前宮田駅の構内跡が広がっている。道路はT字路になって家とぶつかってしまうが、その裏にある海洋センターの高台に切取部分が残っている。ここから次の露天掘り跡までは埋められているようである。
二坑の露天堀り跡。先ほどの切取を通って菅牟田方面に進んでいたようであるが、その跡は全く見ることが出来なかった。近くにすんでいるおばあさんによるとに炭鉱全盛時、露天堀りをする前には炭住とよばれる長屋の社宅がたくさん軒を連ね、菅牟田方向には貝島炭鉱の象徴とも言える、昭和28年完成の総工費20億円を投じた大之浦竪坑ビルが望んでいたという。
菅牟田付近は当時とは全く様相を変えており、鉄道もそうだが、炭鉱の跡地、ボタ山のほとんどが造成されて住宅地へと変貌している。ここは小竹町の本入溜池の入口部分。正面に見える砂利の部分が線路跡と思われ、この背後には後出のレンガ積みの橋台跡があり、庄司方面へ線路跡の砂利道が続いていた。
上の場所のすぐ裏の本入溜池のつけねの部分の小さな川にこの橋台跡はある。草に埋もれてしまって、結構見落としがちな所にある。
六坑方。道路橋のすぐ横にあるので初めて通った時は気が付きませんでした。何度が通るうちに「あっ!」っと。
左が庄司方。やっぱり煉瓦積みって遺構らしくていいですよねぇ。煉瓦積みなので結構古い時期に敷設されたことが分かりますね。
これが本入溜池。この池の右側の辺を走っていたようである。
砂利道が続いていたが途中から道がなくなり、その先はかなり深いブッシュに囲まれてしまう。
小竹町新多から宮田・若宮方面へ抜ける県道とクロスしていた場所。前出の溜池沿いを進んでくるとここへ抜ける。上に登ってみると確かに溜池方向へかなり深いブッシュに囲まれながらも線路跡が続いていた。
上の道を西側に進んだ場所より撮影。左側は庄司方、右側は六坑方。左へ進んでいくとトンネルを抜け庄司の採砂場へ続いていた。今は、築堤上の砂利道へ上がる入口には立入禁止の表示があるとともに、門にはしっかりと施錠がしてあった。奥にはその盛土跡がはっきりと残っている。庄司の採砂場があった所には陸上自衛隊飯塚駐屯地があり、さすがに奥まで入って調べることはできなかった。