油須原線が中継ポイントとして通るはずだった、添田線の大任駅跡は「大任町交通公園」として整備されています。その沿革はご覧の通り。油須原線に関しては触れられていない。
公園には腕木式信号機と車輪、レールがモニュメントとして設置してある。これはこれで、後世にここに鉄道ありきを語る、大変素晴らしいものなんだけど、欲を言えば、上山田線の大隈駅跡の公園などもそうだが、何か保存車両が欲しかったものですね。かつて日本経済を支えていた石炭王国筑豊の象徴として、セム・セラ等の石炭車1両でも置いてくれれば、またイメージが変わっていたように思う。まぁ、鞍手町の保存車両のようになるのがオチなんだろうけど・・・。やっぱり保存って、市町村レベルじゃ難しいんでしょうね。
これは保存車両じゃございません(笑)
この公園の隅にあります。
倉庫として使っているのでしょうかね?
左に真っ直ぐ延びる道路は添田線跡。大任駅から北へ進むと、油須原線はまた東へ進路を変えます。次に控える「野原越トンネル」を目指し、徐々に高度を上げ築堤を登って行きます。今はその築堤はすべて崩され、画面右端の所まで道路になっていました。その先も道路化工事中で、大任小学校の横にあった短いトンネルも無くなっていました。その先、県道34号線とクロスする場所に残っていた橋台も姿を消しています。その先は自然の森の横を通り、サイクリングロードのような道路になっています。この辺の遺構は、ほぼ全滅です。唯一それとわかるのは切り通しの法面ぐらいでしょうか。
先ほどの分岐点にも残っていた「工」
何年経ってもしぶとく残ってそうな遺構の一つだと思います。
県道34号線を越え、自然の森の横のサイクリングロードのような道の先からは、路盤がどこにあるのかもわからないほどの森の中へ消えてしまいます。自然の森のそばから行ける高台を通る道路より、油須原線の築堤が少しだけ見ることができる。左が大任側。この右側に野原越トンネルの坑口があると思われる。この築堤には近づけないので、確認のしようがない。
(↓2002年9月追記↓)
このコンクリート橋のすぐそばまで行ってきました。集落の細い道をうねうね進んで行くと、目の前に突き当たりました。築堤のすぐそばの家のおばちゃんに「これは線路の跡ですかぁ?」とアヤシイ者と思われないように聞いたところ「そう。この先は行き止まりやけん行かれん」と応えてくれた。肝心の写真を撮るのを忘れてしまいました(汗)
その野原越トンネルで北から東へ90度進路を変える。その油須原側の坑口。最近まで、PC枕木とレールがしっかり残っていて、今にも列車が走ってきそうな雰囲気を漂わせていたのだが、すべて剥され、コンクリートで埋められ、さらにはミニレールが敷かれてある。しかもトンネルの中まで。
画面左隅の野原越トンネルを出ると田圃の中を築堤で抜ける。この右側にはもう一つ短いトンネルが口を開けている。この築堤上にもレールは残っていたが、上の様にコンクリートで埋められ、ミニレールが敷かれている。右のトンネル内も同様に敷かれている。
野原越トンネルの次の短いトンネルの油須原側の坑口。ご覧のような状態になっています。以前は木々や雑草に囲まれトンネルに近づくことさえ出来なかったのですが、今は、降りて行ける側道も作られ、容易に近づくことが出来ます。
トンネルの様相は、すっかり変わってしまったが、例の銘板は今も健在であります。
以前はとても入ることの出来なかった、切り通しを進む。このまま進めば、田川線(現・平成筑豊鉄道)との合流点まで行けるぞっ!と思ったのもつかの間、この右カーブの先で残念ながら行き止まりになっていました。
この赤村にある遺構はそのまま放置されなければ、まだまだ残りそうな感じです。その他の遺構、福田トンネルや架道橋などはまだ残りそうです。福田の大築堤などは、道路化・農地化が可能なので、撤去後も土地の転用が出来るが、彦山川橋梁については撤去費用もかなりのものでしょうし、撤去したところで、何の利点も無いと思われるので、まだまだ残るのでは?と勝手に推測しております。