後藤寺線には2本の貨物支線がありました。
●上三緒駅〜筑前山野駅(2.2km)
この線の歴史は古く、明治35年6月15日に敷設された。その前、明治26年に筑豊興業鉄道により開業していた、鯰田駅〜飯塚間駅から分岐(現・新飯塚駅)する短い貨物支線の先に芳雄炭積場が設けられていた。その短い支線を延長する形で芳雄炭積場〜上三緒駅〜山野駅(大正10年9月11日、筑前山野に改称)が九州鉄道によって敷設された。同時に芳雄炭積場も芳雄駅へと昇格した。明治42年、筑豊本線の貨物支線となる。芳雄駅は筑豊本線から分岐した支線上にあったが、大正9年に旅客扱いが始まり、利便性を考え分岐点上に移転した。これが後の新飯塚駅である。その名残で、当初、芳雄駅のあった付近の踏切には、JRになった今でも「支線旧芳雄踏切」と書いてあるのを見ることが出来る。車で一旦停止する時に比較的見つけやすい。
大正2年8月20日に上三緒駅〜赤坂(現・下鴨生)駅〜漆生駅が延伸開業し、線名も漆生線となった。上三緒駅〜筑前山野駅間は2.2kmの漆生線貨物支線となった。大正9年から昭和20年までは旅客列車も運行していた。昭和18年7月1日、漆生線の一部(新飯塚駅〜赤坂駅)と産業セメント鉄道(赤坂駅〜船尾駅)と田川線支線(船尾駅〜後藤寺駅)の3線が合体して「後藤寺線」が誕生した。これにより上三緒駅〜筑前山野駅間は後藤寺線の支線となった。筑豊の鉄道の特徴として、どこかで炭鉱が開坑すれば、支線が支線を生み、またどこかで炭鉱が開坑すれば、またその支線が支線を生み・・と、非常に密度の高い巨大ネットワーク形成があげられる。しかし、炭鉱のあるところへ優先的に敷設されたが故、旅客輸送的には不都合な線もあった。この支線は炭鉱閉山と同時期、昭和39年2月24日限りで廃止された。
上三緒駅は後藤寺線として、まだまだ健在である。廃止されて約40年も経っているため、目立った遺構はこれといって無いが、後藤寺線との並走区間に煉瓦製の橋台、分岐点付近に残る盛土、遠賀川の川底に煉瓦製の橋脚跡を見ることが出来る。
●下鴨生駅〜赤坂炭坑駅(0.8km)
大正15年7月15日開業。田川線(当時)起行駅(現・田川後藤寺駅〜船尾駅間)から船尾駅までの私有鉄道を開業させていた九州産業鉄道(後の産業セメント鉄道)が、船尾駅から漆生線赤坂(現・下鴨生)駅まで延伸開業した際に、赤坂〜赤坂炭坑間を同時開業している。昭和18年7月1日、産業セメント鉄道が国有化されて後藤寺線となり、後藤寺線の貨物支線となった。昭和20年6月10日、廃止されているが、赤坂駅の構内として存続してたようである。いつまで稼働していたかは不明。国交省の空中写真ではその跡がよく分かる。
鉄道の遺構は全く無い。積出場にあった炭鉱のホッパー跡が藪の中にある。
■上三緒〜筑前山野
支線の分岐駅だった上三緒駅。写真の駅名標は、現在使用されていない(おそらく3番のりば?)ホーム上に残っている。当然ながら、駅名標に・・・