2017年2月19日、漆生線跡の嘉穂信号場跡から才田駅跡まで探索してきました。2年ぶりの探索です。当日の参加者は、遺構へ行こうの藪将軍こと倫堕さん、さっかーさん、分オイさん、おっちーの4名。桂川駅に集合して西鉄バスで西牛隈(上山田線大隈駅跡)へ。残念なことに嘉麻市のバスが接続していないため、そこから歩いて嘉穂信号場跡へ行きました。
写真は嘉穂信号場があった場所から下山田側を見たところ。ここに鉄道の信号場があったなんて想像できませんね。
こちらは大隈・才田側。漆生線は写真右の雑木林に沿ってカーブしていました。遠くに見えている建物は、高校跡地に建設している県の消防学校。
信号場跡から才田方向に沿って鉄道時代の擁壁が続いています。
この辺から外されたマクラギが点在していて、ここは線路跡なんだなというのが分かります。
法尻に沿ってレールも放置されています。
目の前に見えている竹藪に突入します!
前回の探索よりも倒竹が多い気がする・・。まぁ、そんなことは気にせず、朽ちた倒竹を踏み割りながら進みます。
竹藪突入してすぐのところに、薄っすらトラ模様の縁石が残る踏切跡(太郎渕踏切・第4種・下鴨生より6km138m)があります。その先からレールが残っています。何度来ても、このレールを見た瞬間のワクワク感がたまらんとです(笑)
タイプレートが付いたマクラギが転がってます。
静かな竹林にバリバリっ!バリバリっ!と竹を踏み割る音が響き渡ります(笑)
脇には通信ケーブル埋設標が残っています。
レールの間から生えている木が倒竹を防いでくれているのか、このあたりはとても歩きやすい。
振り返って信号場方向を見たところ。不思議なことに線路跡の上は竹が生えてない。横から地中を通ってタケノコが出てきてもよさそうなんだが(笑) 地質のせいやろか?(適当)
マクラギはかなり朽ちてます。周りの竹が成長して年々陽当りが悪くなってきてるのもあるだろうし、経年劣化もあるだろう。バリっと踏んで脚をくじかないよう気をつけよう。
才田方面へ抜ける道を跨ぐコンクリート橋が見えてきました。
柵が残っている箇所がありますが、根本が朽ちている場合もあるので安心しないように。握った瞬間、下にあれ〜っとならないように注意しましょう。同行している倫堕さんは、なぜか毎回このあたりでコケます。足元にも注意であります!
柵が無い箇所もあるので転落しないよう。この線路跡、何か往来があるような感じに見えませんか?
人?私らみたいな物好きが年間数名通るだけでしょう。ここはやっぱりイノシシでしょうな。今のところ一度も遭遇したことはありません(遭いたくない)が、前回は獣のニオイがあちこちでプンプンしてたんですよね・・。
2つのコンクリート橋を渡ると、再び竹林に突入します。廃線を歩く時って、レールとレールの間を通りたくなりますよね。でも、歩行困難な箇所は横に避けながら進みます。
こんな倒木やら・・
あんな倒木やら・・
こんな倒竹が行く手を阻みます。よく見たらレールが見えてるんですが分かります?
カント(C=曲線部のレールの高低差)とスラック(S=曲線部の軌間の広げ幅)の数値が記された箇所がありました。この標示、才田までの間にいくつか見られます。
竹林を通り抜けて嘉穂信号場方向を見たところ。写真の中央奥の真っ暗なところから出てきました。
初めてここへ来た時、レールが4本並んでる?ナゼだ?と疑問に思った場所です。実はこの先の踏切部分のレールが外されてここに置かれています。
ケーブル埋設の注意看板も残っています。
直方の市外局番「09492」っていつまで使ってたんだろうと思って調べたら、平成10年12月1日に「0949」に変わってた(総務省のサイトで見つけた)。昔「093」から「02998」エリアに引っ越した時、電話番号に衝撃を受けました。市内局番1桁っちなん?って(笑)
斜めに置かれたマクラギが残る踏切跡(野添踏切・第4種・下鴨生より5km814m)があります。写真奥が嘉穂信号場方向で、手前が才田方向。線路は矢印の位置に通っていました。写真の右側に墓地があるので今も人の往来はあるようです。
一部墓地の改修があったのか?よく分かりませんが木が伐採され、線路跡の一部も少し手が加えられていました。おかげで用地基準標を見ることができました。
今回の伐採で藪化が酷くて唯一鉄道用地外へ迂回していた箇所を進むことができました。足元が結構ヤバかったですけどね。野薔薇が強敵(笑)
迂回して盛土法面から登っていたところへ到達。踏切跡のところだけレールは外されてますが、その先はレールはちゃんと残ってます。写真左の踏み跡は人のじゃないよねぇ…
さらに進むと少し明るく開けてきます。相変わらず木々に邪魔されますがサクサク進めます。で、実はここコンクリート橋の上だったりします。今回は下まで降りて橋の全体は見ていません。というか完全に忘れてました(汗) 約10年前に来た時、銘板チェックをしたんですが名称部分が不明瞭で読めませんでした。
コンクリート橋を越えると背丈ほどのススキと野薔薇に覆われたモジャゾーンになります。足元のレールを確認し、ススキのフワフワと飛んでいくやつを吸い込まないように口と鼻を押さえつつ、野薔薇のトゲに刺さりながら(笑)突き進みます。
神社へ抜ける踏切跡(信号機位置図に記されてないので所謂勝手踏切?)まで到達しました。写真左の坂道を下ると木々に覆われたコンクリート橋の全体が見れます。
この先に高木神社という神社がある。ネットで調べたところ玄室の残る古墳もあるそうな。
この勝手踏切脇にもケーブル埋設の注意看板が残っています。
勝手踏切から先へ進みます。目の前には植物に覆われたレール。さぁレールはどこでしょうか?余裕でしょ!?
まず目に飛び込んでくるのは、陽当りが悪いため太陽を目指し、しの字(Jの字)カーブしたシュロ。スゴい生命力ですな。なんとかペディアによると、こういった所に生えてるのをノラジュロとかノジュロと呼ぶそうな。(但し、要出典・笑)
ここからは気持ちのいい直線が続きます。
写真は嘉穂信号場方向を見たところ。
こっちは才田方向。
倒竹はあるけど、写真で見るより全然見通しは良い。
少し進んで振り返ったところ。この辺は温度・湿度・環境が絶妙なのか、歩いていて非常に気持ちが良い。一種の森林浴か。
気持ちよさも束の間、目の前の倒木で一気に現実に戻されます(笑)
倒木を越えると先のほうが少し明るく開けてきました。
この溝が見えてきたら、もうすぐ西貴船橋りょう跡です。
通信ケーブル埋設標も残ってます。
バラストも流されずに残っています。
西貴船橋りょう跡までたどり着きました。写真中央の木は橋台から生えています。構造的に生えてもおかしくはないのか。にしてもスゴい光景。
西貴船橋りょうの全体写真。
橋台部分は昭和32年に国鉄下関工事局によって設計荷重KS-18で作られています。建設当時は石炭輸送を想定していたためか、一番重い列車荷重で設計されています。KS荷重についてはヤフーでググってみよう(笑)
ところが桁の方は昭和40年に日本鉄道建設公団下関支社によって設計荷重KS-14で作られています。ここから油須原線構想(漆生線・漆生〜才田〜嘉穂信号場間も油須原線の一部)が国鉄⇒公団に移され、設計見直しが行われた…と考えることができます。同じような事例は同時開業した上山田線の油須原線区間(上山田〜豊前川崎間)の橋梁でも見られます。
なぜ8年も桁を架けてもらえなかったんだろう?しかも桁は1週間の突貫工事!? 桁を見上げると鉄筋かぶりの薄い箇所が爆裂してます…
西貴船橋りょうの全体を見たあと再び線路跡に戻る。写真は才田側の橋台から嘉穂信号場方向を見たところ。陽当りがいいので木の成長がスゴい!
西貴船橋りょうを越えた辺りから才田駅に向かってゆっくりとカーブしていたのが分かるシーン。写真は嘉穂信号場方向を見たところ。
この辺から一部土砂が堆積してレールを埋めています。なので、みんな靴で土を掘り起こしてレール確認(笑)
進行方向左手(西側)に沼が見えた辺りからススキと竹の勢いが強くなってきます。数年前の探索時、この辺りの右手に「才田」の標識がひっくり返って放置されていたんだけど、今回も見つけられなかった…
漆生線を跨いでいた道路橋が見えてきて、いよいよゴール目前というところで、この有り様。背丈以上に成長した藪に突入。スムーズには進ませてもらえなかった(笑)
竹藪ゾーンを抜けそうなところで「2」と記された距離標が転がっていました。下鴨生より5km200m地点ですね。実は前回も見つけてたんですが、すっかり忘れてました(汗)
竹藪ゾーンを抜けて、ようやっと第2才田川橋りょう跡までたどり着きました。写真は振り返って今まで歩いてきた線路跡をみたところ。
第2才田川橋りょう跡を越え、ずっと続いてきたレールが途切れたところで、目の前はゴールの才田駅跡。
才田駅跡に到着!お疲れ様でした〜。
今回は藪が酷くて迂回してた墓地付近を踏破できた点が良かったですね。薮漕ぎも激しいのは一部だけで、比較的進みやすかったと思います。ただ、気楽に行けるのはこの時期だけですねぇ。
今回はここから漆生駅跡まで徒歩移動し、お疲れさん会をするべく西鉄バスで飯塚へ移動。さっかーさんは家の都合で泣く泣く帰宅(※探索前後にしっかり燃料補給されてました)。残りの3人で、お疲れさん会をしました。探索後のビールが最高に美味ぇ!!