この日は2月なのに珍しく暖かかったのでバイクでブラブラ(探索)してきました。いつものように時間制限アリでしたけど・・・。三井鉱山セメント専用鉄道跡は、部分的にちょくちょく見てたんですが、久しぶりに起点から途中までじっくりトレースしたんで、まとめてUPします。
ここは金田駅の裏手にある踏切跡。線路を埋めたアスファルトと路肩の切り欠き、道路鋲でニヤリできます。確か奥にから2線、手前に1線1線の4線あったと思います。
踏切跡から先の線路跡は駐車場になっています。緩やかなカーブになっているので線路跡だなってピンときますね。その先端部分は片側のみになった橋台跡が残っています。
橋台跡からその先の中元寺川の鉄橋跡までは廃線敷が残っています。その途中にこんなアーチがありました。煉瓦よりも興奮度は下がりますが、萌える曲線ですな。
中元寺川の鉄橋跡の手前にある踏切跡。踏切ガードレールがそのまま残り、本線レールのあったところをアスファルトで埋めているので、一目で踏切跡ってわかります。車の通行に特に支障は無さそうだし、このまま残りそうな感じですね。
中元寺川の鉄橋跡もいい具合に錆びてきてますね。廃線ファンにはたまらない放置感を強烈に放ってます。現役時代はガーダー部には社名か何か文字が描いてあったと思うんですが・・・何でしたっけ?塗装が剥がれた部分にうっすら文字が浮いてきてるんですが判読が難しいです。
ちょっと前までは中央にアミアミの点検通路?があったような・・。渡ろうと思ったら渡れたんですけどねぇ(但し、命の保障は無い)。マクラギも腐ってそうなので馬鹿な真似はしないように(笑)
鉄橋跡全景。右が金田駅側。
終点側から金田駅方向を見たところ。かつてはここにも踏切跡があったんですが、掘り下げられています。今は目線の高さに線路跡がある感じです。
その掘り下げられた踏切跡から終点側を見たところ。ここから南に90度方向が変わり、緩やかな下りカーブの盛土が一望出来ます。
盛土上はレールやマクラギは無いもののバラストや踏切制御子外箱、曲線標、キロポスト、用地杭など色々残っており、廃線跡を堪能出来ます。
ちなみにこれは「3号BDC」と記されています。起点側から数えると、金田駅裏の踏切が1号、中元寺川の右岸の踏切が2号、ということは掘り下げられた部分にあった左岸の踏切が3号で、その警報終止点ということですかな。
塗装が剥がれてて判読が難しいですが、距離的に起点から500mのキロポストですね。凝視してると「1/2」「0」の文字が浮き出てくるはず(笑)
この箱は文字が潰されて読めません。上部が朽ちてどっかに行ってしまってます。
しばらく歩くと短いスパンのカルバート跡が2ヶ所あります。転落防止のためにフェンスが設置されています。ここにも踏切制御子の箱が残っています。
踏切の仕組みをググってみると、CDCは踏切警報リセット点位置とのこと。ここを起点側から通過すると中元寺川右岸の踏切の2号踏切の監視状態が初期化されるらしい。4号踏切の踏切警報始動点(ADC)もここのようだ。
桁は外されて橋台部のみ残っています。銘板等はありませんでした。
そのすぐ近くにある水路を跨いでいた開渠跡。
この幅なら暗渠にした方が良さげな気がするんですが、何か理由があるんでしょうかねぇ?
盛土法面に残っている曲線標。この廃線敷は雑草もそんなに生えてなく(季節的なものかも)、バラストを歩く時のあのゴリッゴリッて感じの独特の音を堪能出来ます。
用地杭も残っています。ここには「小野田用地」の杭が横たわっていました。
中元寺川左岸の踏切(3号)を通り、南へのカーブを下ってきたあたりに3号踏切の踏切警報リセット点がありました。
場所的には4号踏切跡から少し金田側に歩いた所。5号踏切の警報始動点の箱が残っています。
4号踏切跡から金田方向を見たところ。右側にこの踏切の警報終止点の箱が残っています。
4号踏切から終点側は歩道化工事の真っ最中でした。工期に遅れが無ければ、この記事をUPした時点で既に完成しているかもしれません。
踏切名分からず踏切。順番的には7番目なので7号踏切?道路の交差点の中心から少しズレた位置に線路が通るちょっと面白い位置関係の踏切でした。この辺の線路跡は自転車・歩行者専用道路に転換されています。
上の踏切跡から終点方向を見たところ。写真奥の急勾配が始まる付近まで遊歩道が整備されています。
踏切名分からず踏切。順番的に8号踏切?
ここまで遊歩道が整備されています。写真右側に警報機を留めていた土台とアンカーボルトが残っています。倒れている電柱は踏切の照明用かな?
ここからはレールとマクラギを剥がしただけの状態になります。バラストは残っているので歩くと例の音がします。
曲線標も残っています。バラストの上をバイクで走ったのは学生時代以来(笑)
ここは福智町と糸田町のちょうど境界上。左が金田側の福智町、右が終点側の糸田町です。桁は残っているものの、福智町側はフェンス、糸田町側は鎖で封鎖されています。フェンスと鎖・・・この差は予算の都合!?(笑)
その先、泌川の橋りょうは桁が撤去されて起点側の橋台のみとなっています。
終点側は橋台・盛土諸共無くなって道路になっています。その先も2ヶ所の橋りょうが無くなって更地になっています。さらに先からは藪化されつつある廃線跡が続いています。この日はここから廃線跡の上を跨ぐ道路橋から現況をチェックして帰りました。歩いて見立まで行ったのがこの前のように思いますが、藪漕ぎ必至の状態の現況を見て、そんなに時間が経ってるんだと実感しました。