多くの側線と機関区を抱え、石炭輸送に於ては最重要駅でもあった若松ですが、この頃になると石炭車がビッシリという訳でもなく、構内に少し寂しさを感じます。駅舎は大変立派なものでした。構内の端(画面右下)からは北九州市営軌道が走っています。現在は、駅舎は建て変わり、広い構内は「久岐の浜」という地名になりマンション・駐車場になっています。周辺の街並みもガラリと変わりました。
蒸気機関車が4両、ターンテーブルや給炭設備が見えています。扇形庫は無く並列の機関庫があったようです。この写真の撮影時期は1974年度しかわかりませんが、他のルート(cku-74-7_c10a_18.jpg/昭和50年3月2日)の写真と比べると、蒸気機関車の留置位置、貨車の並び位置等がほぼ同じなので、1974年度末(3月)の可能性が高いと思います。よってこの機関車たちはすでに引退済ということでしょうか。北九州市営軌道線には凸型電気機関車が貨車を牽いて街中へ出ようとしています。
若松車両センターへ改称した後だと思いますが、長く使われた名称で記載しています。この工場は筑豊本線の前身である筑豊興業鉄道が、若松〜直方間を開業させた翌年に開設されました。明治生まれの大変古い工場です。多くの貨車が製造・改造されていましたが、昭和60年に廃止されました。その後、一部は若松警察署や国道の新道になりましたが、大部分は空き地のままです。
各駅から若松まで運ばれた石炭は、洞海湾の岸壁に沿って設置された桟橋から船に積み込まれていました。桟橋の山側には貯炭場が設けられており、石炭が本当に山のように積まれていたようです。高さは6m、全長は1.05km、かつては東洋一と言われたガントリークレーンがあったそうです。昭和50年代中頃、既に用済みとなっていた桟橋を筑豊本線の車窓から初めて見ました。何だろう?あの線路は・・とても不思議な存在に見えましたね。小学生だったので桟橋の役割を知りませんでしたから・・。現在は用地売却済みのようです。
日本板硝子若松工場への引込線が見えています。かつては、二島駅裏の洞海湾埋立地にあった日炭高松二島鉱へも引込線がありました。日本板硝子若松工場跡地は現在、イオン若松ショッピングセンターになっています。引込線跡はありません。
ポインタを乗せると分岐付近の拡大画像(180度回転)に切り替わります。この写真が撮影された当時は、まだ鹿児島本線からの短絡線がありました。かつては、サンリブ折尾付近まで浅野セメントの専用線が延びていました。当時、構内には本線・側線含めて6線あったようです。専用線が廃止になり、その後、信号場も廃止。短絡線も廃止になり複線に戻りましたが、2003年に本城駅が誕生しました。この写真が撮影された当時は、線路北側の開発が始まったばかりのようです。現在は、団地・住宅・店舗が所狭しと立ち並んでいます。
筑豊本線、鹿児島本線、短絡線×2、西鉄北九州線と鉄道が密集していました。黒崎方面への短絡線にはまだホームはありません。折尾駅前は今と比べて大変狭く、市営バスは折尾駅前に到着した後、西鉄折尾駅横の道へ進んでバックで方向転換していました。駅の便所側に頃末経由猪熊・芦屋方面のバス乗り場、交番側にはT字に駐車出来るバス乗り場がありました。浅川橋経由芦屋・岩屋方面、本陣橋経由若松方面のバスが出ていました。筑豊本線の駅を挟んだ踏切は看守がいる第1種手動踏切でした。今は広い学園大通りも狭い道でした。私にとっては故郷の駅でもあります。このゴチャゴチャした街並みは、私にとっては普通で好きな街でもありました。それが、今、鉄道開通時から長年続いてきた線路配置や街が大きく変わろうとしています。
ポイントを写真に置くと各線の説明が表示されます。折尾〜中間間は筑豊本線の上下線、黒崎方面へ向う短絡線の上下線、計4線並んでいました。仮に筑豊本線複線から短絡線複線を分岐する場合、平面交差する箇所が発生して列車の運行に制限が発生します。筑豊各地区から集まった全ての石炭列車が往復する区間なので、これは大問題です。そこで、中間からは若松方面の本線と戸畑方面の短絡線と完全分離し、途中で上下線を立体交差で入れ替える形にして、より多くの列車を運行出来るようにしたのでしょう。現在は複線に戻っています。黄色で示した短絡線が筑豊本線として使用され、青線の元々の筑豊本線部分が廃止されています。★印に東水巻駅があります。
かつては、5方向から線路が中間駅へ集まっていました。炭鉱跡と広大な空き地が寂しく、西側(画面下)の市街地とは対照的ですね。跡地は住宅・店舗・公共施設が立ち並び、街は大きく変貌を遂げました。
ここから筑前中山駅まで貨物支線が延びていました。用水路程の川にコンクリート橋台跡が残っています。
大正から昭和20年代後半までこの区間は3線ありました。現在は、上下線に挟まれる形で側線跡の空き地と保線用の渡り線があります。★印には室木線廃止の転換交付金で設置された鞍手駅があります。3線区間で土地に余裕があったためか、上下線バラの2面2線のホームになっています。
この駅は側線が無くなったくらいで当時も今もあまり変わらない感じですね。古い駅舎がいい味を出しています。左側(北側)に見える新幹線との交差部分は、訓練運転中の0系新幹線と蒸気機関車がクロスするという粋な演出を見せた場所です。かつて、ここから直方方向に新入第三第四駅までの貨物支線が延びていました。
様々な形式の気動車があり「気動車王国」といっても過言ではなかった直方気動車区。子供の頃はここを通るのが楽しみでした。筑豊本線電化と同時にこの場所から気動車が居なくなり、日田彦山線・後藤寺線など直方に所属する気動車は直方駅裏の直方運輸センターへ電車とともに並ぶようになりました。この当時は★印にある新入駅はありませんでした。現在、跡地は様々な店舗が並んでいますが、まだまだ空き地が残っています。また、一部には暗渠の構造物が残っています。2010年5月現在、バス停の名前は「気動車区」のままになっています。右下に見える側線は貨車が留置されていたような記憶があります。
広大な敷地に幾つもの側線、ターンテーブルが2基(筑前植木側にも気動車区と繋がったものが1基←現存)、立派な扇形庫、直方機関区を抱え、石炭輸送に於ては一大拠点駅でした。石炭輸送華やかりし頃は一日中休むことなく動いていたようです。私の中で最も古い直方駅の姿は、まさにこの写真の頃で、既に蒸気機関車は姿を消し、申し訳なさそうに扇形庫で休むディーゼル機関車や持て余し感がある側線群、ホームの跨線テルハ、小編成のセラたち・・。2011年に新しい駅舎が完成し、様式美を感じさせる古い駅舎は取り壊される予定。扇形庫・直方機関区あたりは直方運輸センターの留置線が並び、山側の貨物側線が並んでいた場所には直方市立図書館や「ユメニティのおがた」が建っています。