40.毎日乗った列車

Category:たびぼうろぐ 2010.10

14時40分・151D/鹿島神宮行き発車。
新鉾田駅から次の北浦湖畔駅の間も高架橋と、油須原線の福田〜大任間にあったような高さのある盛土上を進んでいきます。程なく田園地帯に突入して北浦が見えてきます。晴れていれば美しい車窓なんですが・・・。

移動していたせいもありますが、この日の天気は晴れ→曇り→雨→曇り→晴れ→曇り→晴れ・・・とコロコロ変って鬱陶しかったですね。北浦湖畔駅は盛土上にある片面ホームの駅。周囲には民家がほんの少しある程度の寂しい駅ですが、ホームからは美しい北浦の風景を堪能できます。駅が近づいてきたのでホームを見てみると、何やら人がワラワラ屯している。何だろう? 駅に到着すると、一見、一般人じゃなさそうな風貌のおじさんが降りていき、ホームにいた人たちに拍手で迎えられていました。誰?この人(笑)と思って観察していると、出迎えた人の数人は台本のような冊子を持っていました。あぁ、何かの撮影やってたんだ・・。で、この人は監督さん? 北浦湖畔駅出発後もしばらく目で追いかけていましたが、結局、何だったのか分からずじまいでした。
かなり前ですが、何かで見かけた「駅で撮影されたと思われる○○画像(お察し下さい)」は、すぐにこの駅だと分かりました・・・。まぁ、色んな撮影に使える程、ロケーション的には良い場所だということですね(汗)

北浦湖畔駅を出ると上り勾配の切取区間に突入し、鹿島台地の上に出た所で大洋駅に着きます。この駅にも撮り鉄さんが数名いらっしゃいました。わざわざこんな所まで来て撮影とはご苦労様です・・って感じです。私の場合、毎日乗っていましたから何の珍しさも無いんですけどね。都心から気軽に来れるローカル線なので、そこそこ人気はあるんでしょうか・・。この駅も色々思い出しますなぁ・・・(汗)
さて、次は鹿島灘駅。片面ホームの駅です。鹿島灘とは言っても海は全然見えません。全線通して言えることですが、鹿島神宮〜大洗間は少し内陸側を通っているため、森と畑、少し民家が見えるくらいです。

この辺りから真っすぐな線路がつづきます。

鹿島灘駅を出ると、次は鹿島大野駅。ここは交換可能な駅です。交換列車の後に写っている建物が懐かしい。当時は喫茶店だったか何かあって、一度だけ行った覚えがあります。この駅の周りも民家が増えててビックリしました。広大な荒れ地が広がっていたように思うんですが・・。

次は長い駅名で有名な「長者ケ浜潮騒はまなす公園前」
日本一長い駅名の駅として開業しましたが、その後、南阿蘇鉄道の「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」が開業して、かな表記では22文字と同数ながらも漢字かな表記で抜かされてしまい、さらに一畑電鉄のルイスなんちゃらとかいう駅に抜かれてしまいました。鉄な方なら知っている通り、今はルイスなんちゃらは少し短くなったため、かな表記では日本一タイに戻りました。駅名標は標準タイプでは収まりきれないので特大サイズです。この駅が出来た時だったか、近くにある公園に日本一長いローラーすべり台が設置されたんですが、これもすぐに抜かされてしまいました。

↑長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅を鹿島側から見たところ。

次は荒野台駅。ここは木々に囲まれた何も無い駅だったんですが、いつの間にか住宅地になっとる!またまたビックリしました。駅名標に注目。はまなす公園前の表記は長過ぎてローマ字表記がありません。この駅は、寝坊して自転車で鹿島神宮駅まで間に合いそうにない時に、大洗鹿島線と南北に並行している旧県道(なぜ旧なのかは知らない)と呼ばれていた県道を通って、親に車で送ってもらってました(汗)

次は鹿島サッカースタジアム駅(元・北鹿島駅)
私的には北鹿島駅と書いた方がしっくりくるなぁ。この駅は鹿島臨海鉄道鹿島臨港線と鹿島線の貨物列車がスイッチバックするための側線と、鹿島線の電車の夜間停泊を行う側線があって、南北に長い構内でした。旅客ホームはありませんでした。当時は荒れ地や森に囲まれてて、まともなアクセス道路は無かったように思います。鹿島に引っ越してすぐの頃、貨物列車を見るために何度か北鹿島駅に行きました。駅事務所そばから構内を跨ぐ歩行者用の跨線橋があって、今のスタジアム側に渡れたんですが、構内との境界に獣道化した砂利道があるだけで、背丈以上に生長した雑草や木々に囲まれた中を自転車で走るのは少し恐かった記憶があります。ある時、かなり大きな蛇を自転車で踏んでしまい、死に物狂いで逃げた思い出があります(汗) あの時は暑くものないのに滝のように汗が出て、これが本当の「冷や汗」かと思ったものです(笑)
さて、写真は最後尾から水戸側を見たところ。以降、写真は最後尾からのものになります。
北鹿島駅構内に入って最初の分岐器です。ここは既にJR鹿島線に入っており、今回は確認出来ませんでしたが、奥の方にJRと鹿島臨海鉄道の境界標がありました。大洗鹿島線開業前は、そのあたりに車止めが置かれていたように思います。今も分岐器付近にJR鹿島線の18キロポストがあったので、実際の境界は変ってないんでしょうね。

左側に電留線、右側に貨物側線が並んでいます。ちなみに車内のこの位置。学校帰り、いつもこのスペースに荷物を置いて立っていることが多かったです。隣の運転席には車掌さんが居たので、顔見知りになるはずです。

鹿島サッカースタジアム駅通過。この駅はサッカー開催時のみ営業する臨時駅だそうな。
昔は夜間停泊側線にしか無かった架線が貼られている。鹿島線から電車が入線することがあるのかな?

今走っている所が鹿島線で、右端の線路が神栖駅や知手駅に続く臨港線。新興住宅地や市街地を通っていたので、貨物列車はよく見たものです。国鉄のDD13と同じタイプのディーゼル機関車が牽引していました。ナンバーはKRDで当時はKRD1〜KRD5まで在籍してたと思います。「タキ」や「コキ」クリーム色の「ホキ」が多かったですね。北鹿島駅では鹿島線のDD51と臨港線のKRDの機関車付け替えが行われていました。神栖駅は大洗鹿島線のDCの車庫も兼ねているので、早朝や深夜には臨港線を通って回送されるシーンが見られました。その時間帯は踏切音がよく聞こえるので、特に最終列車の回送の際は、勉強中(・・・いや、ファミコン中か)に「あ、今何時何分頃だな、夜食の時間だ」と思ったものです(笑)

_tabilog_451.jpg

↑北鹿島で撮った貨物列車の写真を古いアルバムで発見しました。撮影場所は今のスタジアム側の跨線橋を降りた付近だと思います。おそらく、1985〜1986年頃だと思います。このホキの長い編成はよく見かけましたね。

国道下のトンネルを抜けて、神宮の森が左に見ながら高架橋を進みます。当時はここのあたりで気動車のオルゴール「アルプスの牧場」が流れ、鹿島神宮駅到着のアナウンスが流れていました。今乗ってる列車はワンマンなので、もちろん流れません。進行方向右側、鹿島線の北側の開発ぶりの凄まじさに驚いているうちに鹿島神宮駅に到着しました。

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