2010年12月アーカイブ

45.ラストラン

Category:たびぼうろぐ 2010.10 コメント(10)

美しい車窓を見ながら、美味しい駅弁を食べる。幸せな時間でした。
海を離れて内陸へ進み、高架橋を進んでいくと防府駅到着。この先、大道駅、四辻駅に停車していき、新山口駅到着。

↑いい具合にシルエットになったので、補整して本人登場(笑)
この先、昼飯後のせいか眠気が襲ってきて、ウトウトし始めました。駅に着いては起きて、また寝ての繰り返しで、パッと目が覚めたのは、車窓にアヤシイ線路が見えた時でした(笑) ちょうど、小野田駅と厚狭駅の間に一部で枕木が残る線路があって半藪化していました。これはもしや貨物線跡? 確かここは3線区間だったはず・・・。
厚狭駅を過ぎ、埴生駅、小月駅、長府駅と停まる度にお客が増えていきました。新下関駅では新幹線の引込線があって、100系新幹線が留置していました。そして、山陰本線と合流して幡生駅到着。幡生と言えば幡生工場ですね。今は名前が違うんでしたっけ。幡生操車場の広い空き地を見ながら進むと終点下関駅到着。ここで乗り換えていよいよ九州に上陸です。

広島から乗ってきた115系に別れを告げ、関門トンネルを抜ける列車が待つホームへ移動。広セキG-01編成の広島側の車輌も、かつてはデカ目だったようで、小型のシールドビームの下にその痕跡がありました。

次の列車は小倉行きの415系1500番台。これを見た瞬間、あぁ、福岡に戻ってきたんだなぁ・・・と、妙な安心感がありました(笑) 同じ型の車輌は、小山駅から友部駅までも乗ったけど、感じ方が違いますね。方向幕に「小倉」と表示してあるせいもあるでしょうね。発車案内がLEDじゃないところがいいですねぇ。

13時12分/5169M・小倉行き発車。
下関駅から関門海峡側へ続く側線やその跡を見ながら進み、関門トンネル突入。今回の旅で何度目だろう・・と思いながらデットセクションを通過して門司駅に到着。そのまま小倉まで乗ってもよかったんですが、最後の列車が門司港発筑豊本線経由博多行きだったので、おそらく小倉で大量に乗ってくるだろうと予想して、手前の門司駅で降りました。

門司駅では少し時間があるので、下車印をもらって出場して、しばらくブラブラしようと思いましたが、旅の4日目ともなると疲れが出やすく、ムダに動かんどこう・・・と思って再入場。ホームで待つことにしました。ホームにある、うどん屋からイイ匂いがして、思わず一杯食べようかな・・・と思いましたが、家で食べる久しぶりの晩ご飯に影響が出たらイカンと思い、止めときました(笑)

いよいよ今回の旅の最後の列車となりました。最後の列車は見慣れた817系。
携帯で撮ったので、おかしな形になってます・・・。

13時32分/4645H・博多行き発車。
そこそこの乗車率でしたが、窓側に無事着席。福岡に戻った安心感か、目をつぶると寝そうでした。小倉駅で大量に乗ってきて、西小倉駅を過ぎた辺りまでは覚えているんですが、それ以降の記憶が無いので、寝てたんでしょうね。気が付いたら直方駅でした。直方駅では跨線橋の解体工事が行なわれてて、ビックリして目がシャキッとなりました。その後、乗り慣れたルートで各駅に停まっていき、飯塚駅に到着。ホームに降りると、改札の向うで嫁と娘が待っているのが見えました。跨線橋を渡り、改札前に来ると「パァ〜パ〜!!おかえり〜」と娘の声。疲れも眠気も吹っ飛びました。

到着の記念ということで嫁に携帯を渡して写真を撮ってもらう。普段はこんなことしないんですが、長旅を終えた達成感でハイテンションになってたんでしょうね。改札で切符に乗車記念の無効印を捺してもらい出場。娘を抱き上げて、無事に帰ってこれたことを素直に嬉しく思いました。

↓今回の旅の下車の記録。旅の達人からすれば少ないハンコ数でしょうが、私は満足!!

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長々と続いた「たびぼうろぐ」は、これでおしまいです。
小学生の絵日記みたいな、お恥ずかしい文と写真でしたが・・・
皆様、お付き合い頂きまして誠にありがとうございました。
お出口は「ctrl+W または command+W」となっております。

44.ちょっと寄り道

Category:たびぼうろぐ 2010.10 コメント(3)

次の列車は、下関行き。やって来たのは、またしても115系「広セキG-01」編成。ニヤリ再び(笑)

9時00分/537M・下関行き発車。
結構な乗車率で出発しましたが、新井口駅、廿日市駅で殆どの客が下車していき、
宮島口に着いた時にはガラガラになってしまいました。

車窓に静かな海と宮島を眺めながら、のんびり進んできます。玖波駅あたりから前方に工場群が見えてきました。夜になると綺麗なんでしょうねぇ。最近は北九州でも夜の工場萌えツアーがあるようです。
大竹駅を過ぎて鉄橋を渡った所でアヤシイ場所がありました。

これは間違いなく廃線跡でしょ? いいねぇ、工場に向かって続く緑の盛土。帰宅後に調べてみると、三井化学岩国大竹工場へ続く専用線跡のようです。旅先で廃線跡を偶然見つけるワクワクしますね(笑)
そんなこんなでもうすぐ岩国駅。最初の予定ではそのまま下関駅まで向かうつもりでしたが、岩国? あ、岩徳線があるじゃないか!と思い出しました。急いで時刻表を調べてみると、丁度良い時間に乗り換え可能、しかも徳山では、今乗っている下関行きと接続してる。なんてグッドタイミングなんでしょう。切符の運賃計算は山陽本線経由でも岩徳線経由で計算されますしね。ということで、岩国で下車して岩徳線に乗ることに決定
岩国駅到着。早速、岩徳線のホームに向かう。岩徳線は駅舎に一番近い1番のりばにあるんですね。
列車はキハ40の単行が入線済。とりあえず下車印もらって再入場して乗り込みました。

お客はボックスに1〜2人座ってて、ロングもそこそこ埋まっていました。内陸部を通るローカル線だしガラガラだろう・・・と思ってましたが意外に乗ってて。岩徳線に対して失礼なイメージを持ってた自分を反省(汗)

9時56分/2229D・徳山行き発車。

最初の停車駅は西岩国駅。ホームが長く、背面からしか見えませんでしたが駅舎も大きくて驚きました。木製のラッチも残っていて雰囲気の良い駅でした。開業当時は岩国駅だったそうです。その次の川西駅からは、かつての岩日線、錦川鉄道が分岐していますが、次の駅間にある分岐点を見落としてしまい確認出来ず・・。次に柱野駅を過ぎた所で、長いトンネルに突入。欽明路トンネルというそうな。このトンネルにはかつて排煙装置が付けられていたそうです。これも見逃してしまいました・・・。トンネルを抜けて欽明路駅に停車し、次に玖珂駅に停車します。ここで、お客の半分程が入れ替わりました。
次の周防高森駅は長いホームと広い構内が印象的でした。さすが、山陽本線を名乗っていたいただけはありますね。ここでも数名、お客の入れ替わりがあり、お出かけ仕様の若い女の子グループや中学生?高校生ぐらいの若造グループが乗ってきました。これまで、おいちゃんおばちゃんばかりでしたが、乗客平均年齢が一気に下がりました(笑)
このあたりから、急激に眠気が襲ってきました。目が覚めたら新幹線の高架が横を通っている周防花岡駅でした。ここで、学生、若者のみが大量に下車していきました。何か集い(笑)でもあるのか、若者に人気のスポットがあるのか知りませんが・・・。一気にガラガラとなり、山陽本線との合流点、櫛ケ浜駅に着きました。

そのまま山陽本線を下り、徳山駅到着。この間、海側の車窓には工場が広がり「工場萌え」にはたまらない区間です。夜はとても綺麗で、昔、東京行の寝台特急に乗った時、ここを通るのが楽しみでした。
山陽本線のホームには広島から岩国まで乗っていた下関行きの列車が停車中。下車印はゲットせずにそのまま乗り換えました。時刻表を見ると、この下関行きの列車は徳山駅で約15分停車しているんですね。最近の列車では珍しい長時間停車ですよね。

11時15分/537M・下関行き発車。
次の新南陽駅のホームには煉瓦積みが残っていて萌えました。煉瓦が残るホームは北九州・筑豊にもありますが、山陽本線にもあるんですね。歴史が古いからねぇ。次の福川駅を過ぎ、その次の戸田駅では、EF65-1000番台に牽引された、空荷のレール輸送列車とすれ違いました。EF65なんて久しぶりに見ましたよ。ナンバーがブロックタイプのやつだったので、昭和50年初期に製造された後期型で、EF65の中では新しいタイプなんですが、色褪せてて、かなりくたびれてる印象でした。私らの時代は、EF65-500、EF65-1000といえばブルートレインを牽引する花形機関車で憧れの的でした。その後、牽引をEF66に奪われてしまい、挙げ句の果てにはブルートレインの全廃・・。

当時の仲間たちは新鋭機関車の登場で、次々に消え去っていってるようですね。
まだまだ全廃とまではいかないでしょうけど。ブルトレ世代のおっさん達に「お、あいつらまだ頑張ってるな・・・、まだまだ俺も・・・」と元気を与えて下さいな。

戸田駅を出てしばらくすると周防灘へ抜けます。ここから、次の富海駅のちょっと先までの区間は、車窓に穏やかな海が広がります。山陽本線で好きな所の1つです。富海駅に着いたところで、少し早めの昼食にします。

広島駅で買った「しゃもじかきめし」です。箱を開けると、赤いしゃもじ型の弁当箱が出てきました。

フタを開けると、かきめし、かきフライ、かきの味噌和え、煮かき、じゃこ煮、
色んな方法に調理されたカキがどっさり!!これは美味そうだ

私が食べる量的に少ないかなと思いましたが(汗)、全然問題ありませんでした。

美しい景色を見ながら食べる駅弁は最高ですね。

43.さらに西へ

Category:たびぼうろぐ 2010.10 コメント(6)

目が覚めたのは、ちょうど兵庫と岡山の県境の上郡駅〜三石駅間でした。時刻は6時ちょっと前。セットしておいた携帯電話のアラームでバッチリ起きれました。外は夜明けというより、朝の空でしたが朝日はまだ昇ってませんでした。昨日の酒も全く残ってないし腰の痛みも無い。ぐっすり熟睡できたようです。気分の良い目覚めでした。岡山駅までは30分ちょっと。急いで支度をして到着を待ちます。

新幹線の高架が並ぶともうすぐ岡山駅。写真は携帯で撮ったので、架線柱が斜めになっちゃってます・・。個室内には電気カミソリ用のコンセントがあったので、携帯電話の充電器を繋いでフル充電になったところで、デジカメの電池を充電するつもりだったんですが、そのまま寝てしまいました・・。帰り着くまで持つかな・・。

6時27分、岡山駅到着。次は三原まで新幹線に乗ります。乗り換え時間は10分なので、早歩きで移動。ちょうど、跨線橋の階段前で「出雲」と「瀬戸」の分割作業が行われていました。ギャラリーもそこそこ居る様子。最後まで見たかったんですが、新幹線乗り換え口まで遠そうなので切り上げて連絡通路を急ぎます。

出発から使い続けた片道切符は、ルートが6の字となる京都市内で打ち切られるので、帰りの切符は京都市内発になります。こちらは行きのようなヘンテコな経由地じゃないのでマルス発券の普通の切符です(笑)。新幹線の切符と乗車券を一緒にして自動改札へ通します。高崎や横川で寄り道した時を除けば、行き帰りの乗車券で自動改札を通るのは初めてです。

これから乗る新幹線は「こだま725号・広島行き」
その後の「のぞみ」で帰れば、午前中には帰宅出来るんですが、せっかくなので長く旅したいと思い、嫁から出された限界帰着時刻まで乗り続けることにしました(汗) 山陽本線をひたすら下っていく行程を考えた時、岡山〜三原間で新幹線を使うと、ちょうどいい時間に帰宅出来るんです。
今回の旅で使っている時刻表には500系の記載が無かったので100系だな・・と予想していました。100系デビュー時のカラーリングに戻された編成があると聞いていたので、ちょっと期待していたんですが、ホームに上がると新塗色の100系が入線していました。残念。

まぁそれでも、0系無き今、最古参車となってしまった列車に乗れるのは嬉しい。

駅前のビルの隙間から朝日が射し、まだ人もまばらな静かなホームを眩しく照らしていました。

最後尾の車輌に乗り込む。全車自由席でシートは2列+2列。非常に快適です。しかも、お客は私ひとり。

6時27分/725A・こだま725号発車。
結局、この車輌に乗っているのは私だけ。完全な貸切車輌となりました(笑)

朝日に照らされる岡山の街を見ながら、三原駅を目指します。トンネルを抜けて伯備線が横を通る高梁川を渡り、いくつかトンネルを抜けると新倉敷駅。その後、車窓は断続的なトンネルで単調になったせいか、少し寝てしまったようで、気が付いたら福山を通り越して新尾道駅に着いていました。出発後、すぐに列車とすれ違いました。目の前を流れていく青色。もしやこれは100系の国鉄色?あっという間の出来事でした・・。そして、またトンネルへ。抜けるともう三原駅でした。さすがは山陽新幹線、景色を楽しむヒマもありません(笑) 三原駅での乗り換え時間は5分。ゆっくりしてられなかったので、乗車記念特急券ゲット&下車印ゲットはしないで、そのまま自動改札を通り山陽本線のホームへ進みました。程なく、115系が入線してきました。ニヤリ。

7時24分/333M・広島行き発車。
私が乗った車輌は各ボックスに1〜2人埋まる程の乗客。おいちゃん、おばちゃん、学生さん、中学生ぐらいの女の子たち。日曜の朝なのに意外に乗ってるんだなぁ。みんな広島に向かうんだろうか。列車は、沼田川に沿って山の中へ進んでいく。次の本郷駅を過ぎた辺りから山と川に挟まれた所を進みます。すると目の前に、JR線と道路と沼田川が通る谷を跨ぐ、大きなアーチ橋が見えてきました。かなりの大きさです。乗車位置が悪かったので写真に収めることは出来ませんでした。帰って調べてみると、広島中央フライトロードという道路の「空港大橋(仮称)」というアーチ橋だそうで、まだ建設中とのことでした。橋長800m、アーチスパン380m、地上高190mで、完成すれば日本一のアーチ橋となるようです。列車がアーチ橋の真下を通ると、その大きさに圧倒されました。
周りを山に囲まれて左に右にとカーブしながら、河内駅、入野駅、白市駅と停まっていきます。次の西高屋駅辺りから開けてきて市街地が見えてきたところで西条駅に到着。西条駅は、この先の瀬野駅〜八本松駅間の急勾配「セノハチ」を越える貨物列車に連結された補機「EF67」の切り離しが行われるので、そのせいか側線が比較的多くありました。ここでは広島へ向かうお客がドッと増えました。
次は八本松駅。ちょっと前まで、この駅で走行中の補機解放が行われたようです。ここを通るのは10数年ぶりです。前に空中写真でこの辺りを見ていると、八本松駅から続くアヤシイ線路跡っぽいものを見つけました。調べてみると、かつての弾薬庫に繋がっていた引込線跡とのこと。それを目で追いながら、瀬野八を下っていきます。上り線の向こうに、いかにも線路があったっぽいアヤシイ空き地が線路に沿って続いていました。本線が下り始めそうな所で、山側へ別れた所に桁が残っている橋梁跡がありました。ちょっと感激(笑) 程なく、EF66に牽かれた貨物列車とすれ違い、長い編成の最後尾には補機のEF67が押し上げている様子が見えました。途中にあった勾配標をチェックすると「22.5‰」長い下り坂を右に左に蛇行しながら下っていきます。
斜面に広がる住宅地と、そこへ繋がるスカイレールが見えてきたら瀬野駅。生スカイレールを見るのは初めてかも?建設中の時に見たような気もするけど・・う〜ん、記憶が曖昧。その後、次第に車窓は山から街に変っていき、駅に停まる度にお客が増え、海田市駅に着いた時には多くの立ち客が居るほどになっていました。

8時39分。終点の広島駅到着。列車から一気に客が降り、列車を待つ客もいるためホームはごった返していました。三原から乗ってきた列車は「広セキ C-16」編成。先頭車は確認出来ませんでしたが、三原寄りの車輌の前照灯はシールドビームですが、元々デカ目だったようです。デカメスキーな私としてはちょっと残念。
次の列車までは20分ほど時間があるので、朝食&昼飯調達をします。下車印を貰って出場。すぐに駅弁屋が目に入り、サンプルを見ながらどれにしようか考える。さんざん悩んだ末、入れ物の形が気に入った「しゃもじかきめし」に決定。再入場し、1番のりばにあるうどん屋で朝食。

42.一路、西へ。

Category:たびぼうろぐ 2010.10 コメント(6)

しこたま飲んだ後、東京駅まで倫堕さんがお見送りしてくれるとのことなので、とりあえず、一緒に秋葉原駅へ向かいました。山手線か京浜東北線のどちらに乗ったのか、全く記憶に無いんですが(汗) 2つ目の東京駅で下車。私は長距離片道切符の最後の下車印を貰うために出場。ここまであまりリアクションが無かった切符に、有人窓口にいた若手の駅員さんが反応。私が「最後の下車印なので・・・」と言うと、「捺すの緊張しますねぇ・・・どこに捺しましょうか?」と言ってきたので、切符のど真ん中に捺してもらいました。

次の乗る列車は、寝台特急「サンライズ出雲」
これで西へ向かいます。ちょっと前なら間違いなくブルートレインに乗って、午前中には福岡に着いていたんですが、今はそれも過去の話になってしました。ホームに上がると既に列車は入線済でした。

同じ寝台電車でも583系に比べると大変シンプルな顔をしていますね。
昭和の顔と平成の顔でこうも違うもんですね。女性の化粧を見てるようです(笑)

早速、車内に入ってみます。出発まではまだ時間があるので、倫堕さんと一緒に車内を探検。基本的に全て個室なので、通路に扉があるだけで面白味は無いんですが、ノビノビ座席の車輌の車内構造には驚きました。船の2等船室ように雑魚寝するだけの広々した所だと思っていたんですが、ちゃんと2階建てで頭の部分には仕切りがある造りでした。床は固そうでしたけど。それでも、寝台券が要らないのは魅力ですね。
そして、私の個室へ。すると隣や正面の個室には若い女性が数名たむろしていました。すぐに反応した我々は(笑)、お互いデジカメで写真を撮ったり(女性と一緒ではない・汗)しているうちに発車時間が近づいていきました。

↓ホームでお見送りしてくれた倫堕さん。手にはハイボール500ml(笑)

本当に楽しい時間をありがとうございました。また行くことがあったらよろしくお願いします。

22時00分/5031M・サンライズ出雲・出雲市行き発車。
閉まったドアから倫堕さんを見送り、個室に戻りました。

_tabilog_t07.jpg先程の女の子たちが居たので、しばらく話をしていると、どうやら彼女らはチアリーディングをやってる大学生だそうで、翌日行われる出雲駅伝の応援に向っているそうです。話し終って個室に入り、荷物の整理をしていると、隣の部屋のコが何やらトラブっている様子。どうしたのか聞いてみると、個室の鍵の番号を忘れてしまい、中に入れなくなったとのこと。
サンライズの個室は任意の番号を入力してロックするタイプの鍵なんですね。その番号は忘れてしまうとは、姉ちゃん何しよるん?(笑) 「車掌さんがあっちの車輌にいるはずだから、開けてもらえるよう言ってき〜」と言って、片方のコが車掌さんを探しにいきました。すると、しばらくして車掌さんが中に人が居ないのを確認し、ロック解除をしてくれて一件落着。「もう忘れたらいかんバイ」と言うと、ハイと苦笑いしながらそれぞれ個室に戻りました。
気が付いたら横浜まで来てきました。横浜駅発車後、何やら騒いでる輩が居る。気になったので通路から見てみると、どう見ても場違いな風貌の酔いちくれ兄ちゃん2人が乗ってきてて、空いてる個室に入り駄弁っている。こりゃ絶対この列車目当てじゃないな・・・。こちらもいい具合に酔っているので(笑)、近くに行って話を聞いてみると「大船で降りたいんだけど、これどこ行き?」っと兄ちゃんたち。「島根まで行く」と言ったら血相変えて車掌を探してました(笑) 次の停車駅を教えなかった私は意地悪? 酔ってたしね。おそらく彼らは次の停車駅の熱海で降ろされたでしょうが、時刻表を見ると、その日のうちに大船へ戻れる列車は無し。バカだねぇ・・・。いくら酔ってても自分の乗る列車ぐらい確認しようや・・・。

車内のテーブルにはサンライズの設備が印刷された絵ハガキが置いてありました。奥出雲おろち号の絵はがき同様、勿体無くて使えないねぇ。しかし、このサンライズの内装は凄いね。さずが、住宅メーカーが手掛けただけはあります。合木を使ってるんでしたっけ? 確か。
車掌さんが検札に来た時に買っておいたシャワーカードを持って、さっぱりしてこようとシャワー室のある車輌に移動。先客と待ち客がいたので、しばらくラウンジで夜の車窓を見ていました。私の前に待っていた方は、なんとシャワーカードを2枚持ってて、スミマセン時間かかりますけどいいですか?と申し訳なさそうに言ってきました。「それはダメです!」とは言えませんわな。複数枚使っちゃダメという決まりは特に無いんでしょうけど・・・。なんかなぁ・・・。

シャワーを浴びてさっぱりしたところで、締めの酒(まだ飲むか?)
チーカマを食べながら酒を飲み、光のみが流れる真っ暗な車窓を眺める。なんて贅沢な時間なんでしょう。2階席なので、窓の上部にRが付いており解放感は抜群。583系と違って空調も丁度良くて快適。そんな最高の環境なので、酒が空くと同時に寝てしまったようです。ブラインドも閉めずに(笑)

↑私がいた頃は駅の北側は山で、豊郷地区に抜ける一本道しかなかったのに・・・道路は通ってるし、店舗や民家は増えてるし、ここは一体どこだ?と思うほどガラッと変ってしまいました。スタジアムが出来てからどんどん開発が進んだんでしょうねぇ。昔の面影は全くありません。

↑駅の出口がある南側はどうだろう? おぁ、なんかビルが増えとるわ。
約四半世紀前、初めて鹿島神宮駅のホームに降り、駅前の何も無い寂しい光景を見て、子供ながらにこんな所で生活していけるんだろうか・・・と不安と寂しさで一杯になったものです。その後は少し開発が進みましたが、寂しい駅前だったことには変りありませんでした。駅前のゲーセンにはよく通いました(笑)
私が思うに、駅を中心とした街の開発が遅れていた要因の1つに、鉄道の開通が1970年と比較的新しく、既に駅から離れた場所で町の中心部が形成されていたことがあると思います。また、車が無いと生活出来ないような場所だったので(自転車にすら乗れなかったおっちー母は、鹿島で自動車免許を取得しました)、住民、住金関係の通勤者の殆どが車・バス利用だったように思います。なので、その後の街の開発は住金方向へのロードサイドにシフトしていった感じでした。
ちょうどその頃、東関道の潮来インターチェンジが出来て、道路交通の便が格段に良くなり、翌年ぐらいだったかな?JRバスと関鉄と京成が共同で東京駅行きのバスの運行を始めました。JRでは「特急あやめ」が1日何往復か運行されていましたが、バスはその時間を避けるように設定されていた気がします。運賃はバスの方が安く、首都高・京葉道路の混み具合で時間的にふらつきがありましたが「あやめ」よりも早く着くので、東京へ行く時はバスを使用していましたね。町の中心部や電波研前、住金前、神栖の鹿島セントラルホテルを通るため乗客は非常に多く、大垣救済臨のように溢れた乗客を乗せるためのバスも運行されていました。発車後、強制的に見せられた地元企業の広告ビデオが懐かしいなぁ(笑) 昔のエ○ビデオみたいな字幕スーパーのやつとか(笑) 今でもやってるんだろうか?
その後もバスは増便増便でさらに便利になり、東京に行く時にJRに乗ることは無くなりましたね。
単身、鹿島を離れる際もバスでしたし・・。
「あやめ」は今は1往復しか走ってないんですね・・・バスがあれだけ繁昌してるからなぁ・・・。

今回の旅では鉾田駅の探索に時間を割いた為、非常に残念ですが鹿島神宮駅には降りず、鹿島線に乗り換えて成田方面へ向かいます。鹿島線といえば4輌編成の113系です。これも懐かしい編成です。これから乗る列車は成田行きですが・・・鹿島線の大部分の列車は起点の香取駅の隣の佐原駅行きで、鹿島線専用ホームで折り返していました。佐原駅前にあったデパートもどきの「十字屋ポポ」「清見屋」それぞれの屋上にあったゲーセンに行く時によく乗りました(笑)

15時16分・ 2538M/成田行き発車。
さらば鹿島。今度来た時は必ず下車するよ・・・。鹿島神宮駅を出るとすぐに新しく出来た道路を跨ぐトラス橋があります。ここは道路が出来るずっと前からトラス橋でした。何も無いのに、なんでここだけトラスが架かっているんだろうと不思議に思っていました。もしかしたら鹿島線の計画段階から、国道を通す計画だったんでしょうか?

田園地帯の高架を走り、長い橋梁で北浦を渡ります。大洗鹿島線の新鉾田駅、北浦湖畔駅で見えていた北浦がこんな所まで続いているんですよね。南北に長く広い湖だというのがよく分かります。

反対側を見ると、橋(神宮橋)が2本。あれ、いつの間にもう1本架けたんだ? 鹿島神宮駅の北に出来てた道路やトラス橋の道路はこれに続いていたんだな。ということは国道51号線か。ここでやっと頭の中で道路が繋がりました(笑) 私が居た頃は、神宮橋は1本しかなく、しかも幅員があまり無いのに大型車がバンバン走る橋だったので、自転車で走るのは恐かったですねぇ。その頃は隣に旧神宮橋も残っていました。木製で朽ち落ちてる箇所もあり、見た目に恐かったんですが、人柱が使われているという噂が流れていたので、さらに恐かったですね・・・。

北浦橋梁を渡ると延方駅。あまり印象に無い駅です。いつだか忘れましたが、東京から乗ってきた「特急あやめ」が、この駅で思いっきりオーバーランして逆戻りしたことがありました。佐原〜鹿島神宮間で普通列車になるので停車しなきゃいけなかったんですが、運転士は特急時代のまま「潮来の次は鹿島神宮」と思い込んでいたんでしょうね。
次はその潮来駅。駅の周りは昔と変わってない感じでした。潮来駅を出ると、県境の常陸利根川の橋梁を渡ります。利根川と言ってもこの周辺だけで、利根川、横利根川、常陸利根川、北利根川、新利根川とあり、初めはどこがどこに繋がっているやらさっぱり分かりませんでした。

水郷を見渡す景色の良い高架橋を進むと十二橋駅。あたり一面田んぼの中にポツンとあります。その名の通り、12の小さな橋があって、舟でこれらを見てまわれる「十二橋めぐり」という観光名所としても知られています。10代の頃は全く興味がなかったけど、今はちょっと行ってみたいなぁ。

この高架橋は本当に見晴らしが良くて、 広い田園地帯の向うに鹿島臨海工業地帯の工場群が見えています。十二橋駅を出て、長い利根川の橋梁を渡ると成田線が近づいてきます。そして、並走したまま香取駅へ進入します。

香取駅では、東京近郊区間大回り中の倫堕さんと合流。福岡の廃線を通じて知りあい、数々の廃線探索・乗り鉄を共にした者同士が、遠く離れた千葉の香取駅で再会して成田線の113系電車に乗っている・・・なんか変な感じでした。これからどこかの廃線探索へ向かってるような気分になりました(笑)
列車の旅は同行者居れば、時間が経つのが早いもので、さっき佐原駅を過ぎたばかりなのに・・と思っていたら、気が付いたら成田駅の手前まで来てて、成田新幹線・・・じゃなかった、成田線の支線と京成が通る高架橋が見えていました。今から25年位前、ここを初めて見た時の印象は「不思議で怪しい所」でした。添田線から油須原線を見た時の感覚と似てました。高架橋は線路を挟んで空港側のみ造られていて、成田線をクロスする計画だったことは一目瞭然で、すごく中途半端な感じでした。普通の高架橋と比べて、脚も多く、高さもあり、高架橋のお化けみたいな感じでした。所々に警備員みたいな人もいて、怪しさを倍増させていました。それが成田新幹線の未成線遺構だと知ったのは、成田駅から成田空港まで、この高架橋を再利用した新線が出来る頃でした。
↓80年代末の空中写真。

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当時は、この成田新幹線の高架の手前に、今のイオンがあるあたりになるのかな?、成田線から燃料輸送専用線の高架橋が延びていました。私がその存在を知って車窓から見た時は既に解体中でした。元々は成田空港建設のための資材運搬専用線だったそうです。(成田市立図書館・成田のあゆみ参照)その後も成田線と並走していた部分には専用線跡が残っていて、その後、そこに成田空港への支線が出来たような気がします(ちょっと記憶が曖昧で思い違いかもしれません・・)
その高架橋もついに成田線を跨ぎ、成田スカイアクセスとして開業したようです。右側から成田線我孫子支線が合流して成田駅到着。列車はここで終点。友部から権利放棄した長距離片道切符はここから再開。千葉駅に向かうために列車を待つ。短い乗り換え時間だったため、酒の調達が出来ず千葉まで我慢することに(笑) 程なく、成田空港発の快速が入線してきました。やってきたのはE217系。新しい車輌はあまり知らない私ですが、この車輌だけは何度か乗ったことがあるので知っていました。しかし、私の知識は甘かった。グリーン車以外全てロングシートだと思っていたんですが、倫堕さんに連れられて向かった先の車輌はセミクロスシート車がでした。銚子寄りにセミクロスがあるとは知りませんでした。さすがは倫堕さん、よくわかってらっしゃる(笑)

16時12分/4622F・逗子行き発車。
最初の停車駅は酒々井(しすい)。昔は小さな駅で快速も通過していたように記憶してるんですが、えらく近代的になっていました。その後、総武本線と合流して佐倉駅に停車。かつて、佐倉には機関区があってDD51やDE10が配置されており、鹿島線の貨物列車を牽引していたDD51には「佐」の区名札が付けられていました。今は機関区は無くなっているようですね。

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ここから次の物井駅までの間には総武本線の旧線跡があります。旧線があったというのだけ覚えてて、どこの区間だったか忘れてたんですが、実際に行って車窓を眺めていると感覚的に思い出すもんですね。佐倉駅を出ると、旧線は山の向こうへ進み、新線の方はトンネルで山越えします。その後、だんだんとこちらに近づいてきて、桁が残る橋梁跡や線路敷を見ることが出来ます。
それから、物井駅、四街道駅、都賀駅と停まり、東千葉駅を通過して千葉駅到着。そのまま乗っててもよかったんですが、下車して燃料調達(笑) ここでも下車印をもらって再入場。

売店で酒とつまみを買って、今夜の目的地「アキバ」へ向かうためにホームで列車を待つ。そして、またしてもセミクロスシートに着席成功。太陽が沈み、だんだん暗くなってきました。この辺まで来ると時刻表無しでも何とかなるので、どの列車に乗ったのかは覚えていません(汗)
錦糸町駅で下車して、総武・中央緩行線の電車に乗り換えます。ここでも下車印ゲット。そして、秋葉原駅に到着。
階段を降りて通路を歩いて、また階段を降りて・・と、さすがは立体交差の駅。山手線の高架のさらに上を通る総武・中央緩行線から改札まで移動する面倒臭さは折尾駅以上でした(笑) 下車印をもらって出場。ここに来て腰の痛みが酷くなる。あぁ〜痛い。なぜこのタイミングで・・。疲れが腰に来たのは初めてです。

おっちー、アキバに降り立つ(笑)・・・昔の電気街全盛時には来たことがあるんですけどね・・。
出発前の予定では、鉄道居酒屋に行くつもりでしたが、タイミング悪くイベントと重なってしまったようで諦めました。別の場所で飲みましょうとお誘いがありましたが、どうも腰が痛みが酷くなってきてるので、秋葉原界隈で飲むことにしました。倫堕さん、ご迷惑をおかけしてスミマセンでした。
飲む前に倫堕さんの案内でポポンデッタという鉄道物を扱うお店に連れていってもらいました。本が充実しており、しばらく物色してました。こういう店が近くにあるといいなぁ・・・って、先日、新聞読んでたら、新しい博多駅ビルに出店されるそうです。これは楽しみだ。

駅近くの居酒屋に行くも、満席で待ち客がごった返していたので、しばらく歩いて万世橋近くの飲み屋に入店。2人だけの飲み会開始(笑) 鉄話はもちろん、色んな話で異常な?盛り上がりをみせました。非常に楽しかったです。最終的には「男はみんな、やることは同じ」という結論に達し、お開きとなりました(なんじゃそりゃ・笑)

40.毎日乗った列車

Category:たびぼうろぐ 2010.10

14時40分・151D/鹿島神宮行き発車。
新鉾田駅から次の北浦湖畔駅の間も高架橋と、油須原線の福田〜大任間にあったような高さのある盛土上を進んでいきます。程なく田園地帯に突入して北浦が見えてきます。晴れていれば美しい車窓なんですが・・・。

移動していたせいもありますが、この日の天気は晴れ→曇り→雨→曇り→晴れ→曇り→晴れ・・・とコロコロ変って鬱陶しかったですね。北浦湖畔駅は盛土上にある片面ホームの駅。周囲には民家がほんの少しある程度の寂しい駅ですが、ホームからは美しい北浦の風景を堪能できます。駅が近づいてきたのでホームを見てみると、何やら人がワラワラ屯している。何だろう? 駅に到着すると、一見、一般人じゃなさそうな風貌のおじさんが降りていき、ホームにいた人たちに拍手で迎えられていました。誰?この人(笑)と思って観察していると、出迎えた人の数人は台本のような冊子を持っていました。あぁ、何かの撮影やってたんだ・・。で、この人は監督さん? 北浦湖畔駅出発後もしばらく目で追いかけていましたが、結局、何だったのか分からずじまいでした。
かなり前ですが、何かで見かけた「駅で撮影されたと思われる○○画像(お察し下さい)」は、すぐにこの駅だと分かりました・・・。まぁ、色んな撮影に使える程、ロケーション的には良い場所だということですね(汗)

北浦湖畔駅を出ると上り勾配の切取区間に突入し、鹿島台地の上に出た所で大洋駅に着きます。この駅にも撮り鉄さんが数名いらっしゃいました。わざわざこんな所まで来て撮影とはご苦労様です・・って感じです。私の場合、毎日乗っていましたから何の珍しさも無いんですけどね。都心から気軽に来れるローカル線なので、そこそこ人気はあるんでしょうか・・。この駅も色々思い出しますなぁ・・・(汗)
さて、次は鹿島灘駅。片面ホームの駅です。鹿島灘とは言っても海は全然見えません。全線通して言えることですが、鹿島神宮〜大洗間は少し内陸側を通っているため、森と畑、少し民家が見えるくらいです。

この辺りから真っすぐな線路がつづきます。

鹿島灘駅を出ると、次は鹿島大野駅。ここは交換可能な駅です。交換列車の後に写っている建物が懐かしい。当時は喫茶店だったか何かあって、一度だけ行った覚えがあります。この駅の周りも民家が増えててビックリしました。広大な荒れ地が広がっていたように思うんですが・・。

次は長い駅名で有名な「長者ケ浜潮騒はまなす公園前」
日本一長い駅名の駅として開業しましたが、その後、南阿蘇鉄道の「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」が開業して、かな表記では22文字と同数ながらも漢字かな表記で抜かされてしまい、さらに一畑電鉄のルイスなんちゃらとかいう駅に抜かれてしまいました。鉄な方なら知っている通り、今はルイスなんちゃらは少し短くなったため、かな表記では日本一タイに戻りました。駅名標は標準タイプでは収まりきれないので特大サイズです。この駅が出来た時だったか、近くにある公園に日本一長いローラーすべり台が設置されたんですが、これもすぐに抜かされてしまいました。

↑長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅を鹿島側から見たところ。

次は荒野台駅。ここは木々に囲まれた何も無い駅だったんですが、いつの間にか住宅地になっとる!またまたビックリしました。駅名標に注目。はまなす公園前の表記は長過ぎてローマ字表記がありません。この駅は、寝坊して自転車で鹿島神宮駅まで間に合いそうにない時に、大洗鹿島線と南北に並行している旧県道(なぜ旧なのかは知らない)と呼ばれていた県道を通って、親に車で送ってもらってました(汗)

次は鹿島サッカースタジアム駅(元・北鹿島駅)
私的には北鹿島駅と書いた方がしっくりくるなぁ。この駅は鹿島臨海鉄道鹿島臨港線と鹿島線の貨物列車がスイッチバックするための側線と、鹿島線の電車の夜間停泊を行う側線があって、南北に長い構内でした。旅客ホームはありませんでした。当時は荒れ地や森に囲まれてて、まともなアクセス道路は無かったように思います。鹿島に引っ越してすぐの頃、貨物列車を見るために何度か北鹿島駅に行きました。駅事務所そばから構内を跨ぐ歩行者用の跨線橋があって、今のスタジアム側に渡れたんですが、構内との境界に獣道化した砂利道があるだけで、背丈以上に生長した雑草や木々に囲まれた中を自転車で走るのは少し恐かった記憶があります。ある時、かなり大きな蛇を自転車で踏んでしまい、死に物狂いで逃げた思い出があります(汗) あの時は暑くものないのに滝のように汗が出て、これが本当の「冷や汗」かと思ったものです(笑)
さて、写真は最後尾から水戸側を見たところ。以降、写真は最後尾からのものになります。
北鹿島駅構内に入って最初の分岐器です。ここは既にJR鹿島線に入っており、今回は確認出来ませんでしたが、奥の方にJRと鹿島臨海鉄道の境界標がありました。大洗鹿島線開業前は、そのあたりに車止めが置かれていたように思います。今も分岐器付近にJR鹿島線の18キロポストがあったので、実際の境界は変ってないんでしょうね。

左側に電留線、右側に貨物側線が並んでいます。ちなみに車内のこの位置。学校帰り、いつもこのスペースに荷物を置いて立っていることが多かったです。隣の運転席には車掌さんが居たので、顔見知りになるはずです。

鹿島サッカースタジアム駅通過。この駅はサッカー開催時のみ営業する臨時駅だそうな。
昔は夜間停泊側線にしか無かった架線が貼られている。鹿島線から電車が入線することがあるのかな?

今走っている所が鹿島線で、右端の線路が神栖駅や知手駅に続く臨港線。新興住宅地や市街地を通っていたので、貨物列車はよく見たものです。国鉄のDD13と同じタイプのディーゼル機関車が牽引していました。ナンバーはKRDで当時はKRD1〜KRD5まで在籍してたと思います。「タキ」や「コキ」クリーム色の「ホキ」が多かったですね。北鹿島駅では鹿島線のDD51と臨港線のKRDの機関車付け替えが行われていました。神栖駅は大洗鹿島線のDCの車庫も兼ねているので、早朝や深夜には臨港線を通って回送されるシーンが見られました。その時間帯は踏切音がよく聞こえるので、特に最終列車の回送の際は、勉強中(・・・いや、ファミコン中か)に「あ、今何時何分頃だな、夜食の時間だ」と思ったものです(笑)

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↑北鹿島で撮った貨物列車の写真を古いアルバムで発見しました。撮影場所は今のスタジアム側の跨線橋を降りた付近だと思います。おそらく、1985〜1986年頃だと思います。このホキの長い編成はよく見かけましたね。

国道下のトンネルを抜けて、神宮の森が左に見ながら高架橋を進みます。当時はここのあたりで気動車のオルゴール「アルプスの牧場」が流れ、鹿島神宮駅到着のアナウンスが流れていました。今乗ってる列車はワンマンなので、もちろん流れません。進行方向右側、鹿島線の北側の開発ぶりの凄まじさに驚いているうちに鹿島神宮駅に到着しました。

39.遺構へ行こう@鉾田駅跡

Category:たびぼうろぐ 2010.10

鹿島鉄道鉾田駅跡に来ました。
鹿島鉄道は2007年3月31日の運行をもって廃止されました。その後も有志によって車輌の保存や運転が行なわれてたようですが、色んな事情があって、車輌は鉾田市の施設に移転し、駅舎は老朽化のため解体されたそうです。今は、2本のホームとそれに挟まれる形で残っているレール、石岡側には分岐器と側線跡が残っていました。

↑久しぶりに見た生々しい廃線跡です。かつての通路から石岡側を見たところ。

↑同じ位置から末端部分を見たところ。

車止めは無く、レールがスパッと切れていました。

↑駅舎側のホームから反対側を見たところ。石岡方面のりばの文字が白で潰されていました。

駅や線路は主が居なくなり、人間の手を離れた瞬間から、雑草に蝕まれていきます。
この微妙な生え具合に、何とも表現しようのない寂しさを感じます。時が経ち、雑草に埋もれてしまえば、そこまで感じないかもしれませんね。

↑ホームに挟まれた線路には、雑草が生えないほど油が染みついていました。

油の影響を免れていた所からは秋桜が咲いていて、寂しい駅跡に華を添えていました。

廃線と秋桜は何故こんなに似合うんだろう・・・。上山田線跡もそうだし。

↑駅舎側ホームの石岡側から見たところ。
雑草が生えていない線路は一部だけで、全体的に見ると埋もれつつあります。
ひと冬越すとさらに増殖するでしょうね・・・。

同じ場所から石岡側を見たところ。
線路は途切れていますが、その先には分岐器と側線跡が残っていました。

↑ホームに残っていた木製の電柱。番号札?も木製です。
ひっくり返ってますが、鹿島鉄道の親会社の関東鉄道の社章が記されています。

↑石岡側から見たホームの全景。

↑ホームの先には分岐器が残っていました。
確か、本線と別に北浦側(写真左)と道路側(写真右)の2本側線があったと記憶してます。

雑草に埋もれた線路と錆びた転轍器標識が廃線独特の雰囲気を醸し出してます。

横にはレバーも残っていました。

雑草に飲み込まれるレール。どこまで残っているんだろう・・。
もっと先へ進みたかったけど、時間的に難しいし、3日目ともなると疲労が出やすくなり、前日の碓氷峠でマメが出来た足も痛むし、さらには腰も痛くなってきて行動がスローになってきたので、この辺で切り上げる事にしました。探索に無理は禁物です。

鉾田駅跡を出て来た道を戻ろうとしたら、目の前に「鉾田駅前」の文字が入った看板を見かけました。

鉾田駅前タクシー。今後も名前を変えずに駅があった事を伝えてほしいですね・・。
当初の予定では、お昼ご飯を鉾田で食べるつもりでしたが、溜まった疲労のため思った以上に時間がかかった事と、高崎のホテルでがっつり食べてきた事もあって、昼飯は抜きにしました(汗)

↑本当は学生時代によく行ってたココでお昼にするつもりでした。
私らの時代は別の場所にありました。ここではドリアをよく食べてたなぁ。今もあるんかいな?
今度はグリーンロード経由ではなく、反対側のルートで新鉾田駅に戻ります。あまり人通りが無い寂しい市街地を歩いていると、途中で子連れのママとその母と思しき人とすれ違いました。どっかで見覚えが・・・え〜と、確か同じ部の後輩のコだったと思うんだけど、名前が思い出せない・・。結局、自宅に帰ってもかわらなかったので、同級のコにメールしたら、そいつも忘れてて、他の後輩のコに教えてもらった情報を回してもらってやっと分かりました。あ〜そうそう!そんな名前だったわ。忘れててスマン(汗) 向うもまさか鉾田に来てるとは思わんかっただろう。
駅までの道程にある寺やお店、ボウリング場なんかを見て、色んな事を思い出しているうちに新鉾田駅に着きました。駅のモザイク画の前に立ち、ちょっと休憩。

今頃気付きましたが、これって鉾田を表してたんですね。上の白い部分が鉾田駅で、下の白い部分が新鉾田駅。右が北向きになってますね。当時はマジマジと見た事が無かったので全くわかりませんでした(汗) 毎日横を通っていたのにね・・・。
少し時間があるので、到着時に券売機の切符の買い方を説明してくれた駅員さんと、しばらくお話しました。話によると私と年齢が近いようで、鹿島や鉾田、水戸の話題で盛り上がりました。あの店は潰れたとか、跡地にはアレが出来たとか、久しぶりに超ローカルな話が出来て、現況を知る事が出来ました。
あっと言う間に列車到着の時間が近づいてきたので、切符に入鋏スタンプを捺してもらって入場。せっかくなので携帯時刻表(私も当時使ってた)をもらい、記念にと日付と駅名入りの無札証明書を頂きました。ありがとうございました。
階段を駆け上がると、鹿島神宮行きの列車が来るのが見えました。短い滞在時間でしたが、非常に内容の濃い時間を過せました。いつかまた来たいね。

38.鉾田駅跡へ

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高架橋の下、水戸側の盛土の横を通って通学していました。法尻に植えられている桜の生長ぶりに驚きました。1~2メートル程の高さしか無かったのに・・・。法面も草ボウボウになってしまいました。昔は列車がよく見えていたんですが・・。

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盛土の横を通り過ぎると、大洗鹿島線の架道橋の下を通り「グリーンロード」と呼んでた歩道を登っていきます。この橋台の落書きの酷さは昔からですね(汗) 懐かしくもあり、恥ずかしくもあり・・。どの土地でも橋台はバカタレの餌食になりやすいですね・・・。

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廃線探索を始めてから銘板に目が行くようになったんですが、
当時は全く気にしてませんでしたね。名称と着手・竣工年月日を初めて知りました。

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着手から竣工までちょっと時間がかかってますね。

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↓グリーンロード入り口。左から土砂が流れてる所がありますが、そこは学校裏山を抜ける近道の出口。高い木々に囲まれているため昼間でも暗かった。途中に祠みたいな物があったけど、それが馬頭観音やったんかな?

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ここも木々の生長にビックリしました。新緑の季節になるとまさにグリーンロードやね。あまりにも木が大きくなり過ぎて全体的に暗くなってしまい、ちょっと気味が悪くなってましたね。下の写真辺りからは大洗鹿島線が見えていたんですが・・・。

通い始めた頃はこの坂がきつくてタマランかったんですが、数日で慣れてしまいました。この歩道じゃなくて、高台の反対側から回る車道を通る道もあるんですが、どっちを通っても坂道なんですよね。きっと脚力が鍛えられたと思います(笑)

私らの頃も日が沈むと、外灯がポツンポツンとあるような暗い道で、冬場など部活の練習が終って暗くなった時は、防犯上?女の子と一緒に帰ったりしてましたもんね。今はさらに暗いんでしょうね。ここでも記憶の引き出しがどんどん開かれました。
グリーンロードを登り終えると、新鉾田駅方面へ抜ける道路を通って学校の前を通ります。この銀杏並木。懐かし過ぎます。ここをほぼ毎日歩いていました。そして、再び坂を下って市街地へ続く階段を降ります。
来る前は、鉾田駅までの道を覚えているだろうか?と心配になりましたが、ここまで来ると当時の感覚が蘇ってきて、地図無しでどんどん歩いていけました。商店が建ち並ぶ道を歩き、あぁ、こんな店あったなぁ、あれ?ここは○○という店だったのに無くなってるわ・・・とか、記憶の引き出しが一杯開かれたところで、かつての鉾田駅前に到着。

何?この空間。見えた瞬間、身体がフリーズしてしまいました。味のある木造駅舎は既に無くなっていました。残っているのは2本のホーム跡と線路のみ。撤去された事は知っていましたが、実際に見ると何とも言えぬ寂しさが込上げてきました。

37.記憶の引き出し

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12時08分/141D・鹿島神宮行き発車。

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しばらくは常磐線と並走します。大洗鹿島線は、この並走区間に踏切があるだけで、あとは鹿島神宮駅まで1ヶ所もありません。元々道路があった所は全て立体交差になっています。ちなみに、JR鹿島線も鹿島神宮駅の先から起点の香取駅手前まで踏切が無かったはずです。
この路線は、元々は鉄建公団建設線AB線の鹿島線(B線)として工事が行われていました。先行開業した香取〜鹿島神宮(北鹿島)も鉄建公団によって造られました。国鉄末期、新線を受け取る余裕もなかった国鉄に代わって、1985年の3月に、鹿島線終点の貨物駅の北鹿島駅から鹿島臨海工業地帯への貨物線を運営していた鹿島臨海鉄道によって開業しました。鉄建公団建設線なので比較的新しく全体的にしっかりとした高規格な路線になっています。

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踏切は無く、どんな小さな道にも立体交差を作り、長い高架橋で田園地帯を貫く。レールもロングレール。素人目に見てもわかるほど、ローカル線には見られないデラックスな造りでした。随所で架線柱建植用の穴も見ることが出来ます。しかし、水戸は交流電化、北鹿島までは直流電化されています。もし電化開業させていたならば、どこにデットセクションを設けるつもりだったんでしょうねぇ・・。どっちにしても401系や403系、485系も?が鹿島台地を走る姿が見れたかも。

踏切を越えると高架橋を登り、常磐線と分かれて海側へカーブしながら大きなトラス橋を渡ります。市街地を抜けると最初の停車駅、東水戸駅に着きます。ここは交換可能な駅です。

東水戸駅から常澄駅を過ぎて大洗駅に着くまで、田園地帯の上を高架橋で通っていきます。在学中は、同乗者と話したりして、あまり景色を見ることが無かったんですが、あらためて見ると眺めはそこそこ良いですね。大洗駅に近づくと南向きに大きく進路を変えます。非電化区間の高架橋って、なんかスッキリしててイイですねぇ。

大洗駅では乗務員が交代します。ここからはワンマンになるようです。在学中は全ての列車がツーマンだったので、ちょっと違和感がありますね。水戸で乗った時に見た運賃箱と整理券で既に違和感を感じていましたが・・。ふと、窓から外を見ると、見晴らしの良さそうな大きな窓がある、運転指令室のような部屋がありました。そこに立ってこちらを見ている人に見覚えが・・・。確かあの人、運転士と車掌をどちらもやってた人やん。当時、兼任してる人って珍しいなぁと思ってたのでよく覚えてます。まだいらっしゃったんですね。なんか嬉しくなりました。「キロポストは線路のどっちにあっか知ってっか?」とか、トリビア的な話をしたのを思い出しました。いやぁ懐かしい。

大洗駅の次は、長いトンネルを抜けて涸沼(ひぬま)駅に着きます。ここも高架橋の上にある駅ですが、交換設備は無く片面ホームです。この駅にはホームの先端に使われていない柱があります。当時は、なんじゃこりゃ?と思っていたんですが、今考えると、ホームを支える柱だったようですね。

柱の先にも増設出来るようなスペースが確保されていますね。当時は全く気が付きませんでした(汗)
次は鹿島旭駅、ここは交換可能な駅。駅の風景を見ていると、この駅から通ってた後輩の顔がフッと頭に出て来ました。そうえいば居たなぁ、あんなコ。あだ名から喋り方から。1つ思い出すと、どんどん記憶が蘇ってきました。次から次に記憶の引き出しが開けられていきました。泥棒が入った後のタンス状態です(笑)
次は徳宿駅。切取区間の途中にある片面ホームの駅なので、地上から階段を降りる構造になっています。実はあまり印象に無い駅です・・・。いよいよ、次は新鉾田駅です。

何年ぶりだ? この駅で降りるの。高架駅なので駅周辺が一望出来るんですが、いやぁ、民家や店舗が増えてるなぁ。ビックリしました。ホームには数名、カメラを持った人がいる。撮り鉄さんか。中には撮り鉄子さんもいらっしゃいました。世の中変わりましたなぁ(笑)
駅名標のバックに見えている高台は山王台と呼ばれてて、何故か学校が集中している場所でした。高台にチラッと見えている校舎はうちの母校の特別棟で、そこから見える景色は北浦はもちろん、30キロ程離れた鹿島臨海工業地帯の航空障害灯まで見えていました。大変見晴らしが良い場所でしたねぇ。

水戸から乗ってきた列車を見送り、駅を出るために階段を降りました。

いやぁ〜懐かしい。この階段。
地上にある改札口へ降りる階段は1ヶ所しかないので、朝は人、人、人で大混雑してたなぁ。
大洗鹿島線の中で駅員がいる駅は新鉾田駅と大洗駅だけで、あとは無人駅です。窓口に居た駅員さんに水戸からの切符を渡して駅の外へ。かつてあった待合室は無くなっていて、広いオープンスペースになっていました。真冬や乗り遅れた時なんかは、その待合室で列車が来るのを待ってたなぁ。

_tabilog_t09.jpg鉾田滞在時間は2時間。あとでバタバタしないように成田までの切符を買っておこう。窓口にPOSらしき機械が見えていたので、駅員さんに聞いてみると、落雷で故障しちゃったので発券出来ないとこのと。親切に券売機での買い方を教えてくれました。
切符は連絡乗車券です。大洗鹿島線は鹿島サッカースタジアム駅がJRとの境界駅になっているので、こんな表記になっています。

当時は北鹿島駅という旅客扱いをしない貨物駅でしたが、当時の定期券を見ると経由地が「北鹿島」になっています。貨物駅が経由地に表記されるのは珍しいですよね。当時はそんなこと全く意識しないで乗っていましたけどね(笑)

鉾田上陸!!時間も無いので、毎日通っていた道を進んで、廃線となった鹿島鉄道鉾田駅跡へ向かおう。

再入場して水戸方面の電車をホームで待つとしよう。ふと、学生時代に乗っていた鹿島臨海鉄道大洗鹿島線内では、車掌さんが車内補充券を売っていたのを思い出しました。鹿島神宮から新鉾田までの通学定期券で水戸まで乗り越す際は、いつも買っていました。JRの路線がびっしり印刷されてて、丸印が記された駅に小さな穴を開けるタイプのやつでした。もしかしたら今も売ってるのかなぁ・・そう思って、本来ならば友部駅の券売機で水戸または新鉾田までの(売ってたのかな?)切符を買って再入場するべきところでしたが、あえて買わずに今まで使ってきた長距離片道切符で再入場しました。
左の切符は学生時代に新鉾田〜水戸間を往復したときのもの。新鉾田から乗り越して車内で水戸までの往復切符を発行してもらいます。当時、水戸駅は自動改札なんてありませんでしたから、改札口には多くの駅員がいて、これを見せて出場して街へ向かいます。水戸駅ビルやサントピア、伊勢甚、川又楽器、ゲーセンとか行って遊んだり買い物したりしたなぁ。帰りはこの往復切符を見せて再入場。そのまま定期で鹿島まで帰ってました。いやぁ、懐かしい。

ホームで待っていると、初めて見る車輌が近づいてきました。何じゃ?あの車輌は?発車案内を見ると「フレッシュひたち」と表示してありました。フレッシュ? ネーミングはいいとして・・・常磐線の特急といえば「ひたち」ですね。ボンネット型の485系が大活躍していた時で記憶が止まっている(先頭にLEDのヘッドマーク?が付いてたやつは、大学時代に一度乗った気がしますがイマイチ覚えていない・・)ので、何もかもが新鮮です。まさにフレッシュ(笑)

今度乗る列車は水戸行きの普通列車。フレッシュひたちを見送ってホームで待っていると、また初めて見る列車がやってきました。時間的にあれが水戸行きの列車か? 常磐線は401系・403系・415系と条件反射的に待ち構えてたところがあって、見慣れぬ車輌の登場にちょっと不安になりましたよ(汗) あとで調べてみたら、国鉄型車輌はとっくに無くなってたんですね・・。1500番台も数年前まで常磐線を走っていたようですが、それも今は新しいやつに置き換わっているようです。それで、用無しとなった車輌達がはるばる九州までやってきたんですね。まぁ、国鉄時代から、勝田電車区と南福岡電車区の間では車輌の行き来が多かったですもんね。

私を不安にさせた(笑)車輌は「E531系」というそうな。この顔つきは好きになれんなぁ・・(汗)

11時44分・ 1355M/水戸行き発車。

自前の工場で造られた車輌のようです。製造工場表記にしては珍しい、行書体系の手書き文字(デジタルフォントではなさそう)が目を引きます。ちょっとしたところですが、これは気に入りました。

車内はこんな感じで、九州の特徴あるデザインをした車内設備とは全く違った印象ですね。
田舎者的な表現をすると「東京の電車」って感じ?(笑)

田畑や山が見える車窓から内原駅、赤塚駅と停車するごとに車窓から見える街が大きくなっていく。臨時駅の偕楽園あたりで進行方向右に千波湖が見えてきました。いやぁ〜懐かしいなぁ。近くにある茨城県民文化センターに行ってたなぁ。そろそろ水戸駅到着。私が行ってた頃は北口が表玄関的な感じで、駅ビルの前には商業ビルが建ち並んでいました。反対の南口一帯は「駅南・えきなん」って呼んでて、北口の繁栄ぶりとは対照的に何も無かったような気がしたんですが・・・着いてビックリ。大きな駅ビルが建ってて、周りには建設中のビルもありました。すごい開発ぶりだなぁ・・。あちらの言葉で言うと「なんだァ? えきなん、変わってっぺヨォゥ!! これ。久しぶりだから、どこがどこだかわがんねぇーべよ。これ」・・・こんな感じだったかな(汗) 鹿島周辺は転勤族(我が家も)が多いし、私自身数年しか居ませんでしたので、だっぺ言葉に染まりませんでしたが、超地元の人が話す会話は理解不能なことがありましたね(汗)
さて、次に大洗鹿島線に乗り換える為に一番駅南側にあるホームへ向かいました。すると、ホームへ降りる階段の前に改札口があって、そのまま行くことが出来なくなっていました。私の頃はJRも大洗鹿島線も同じ改札口だったんですが・・・。長距離片道切符を見せて、友部から新鉾田まで行くんですが・・・と尋ねてみると、友部〜水戸間の料金を徴収されて精算済券をもらいました。大洗鹿島線の切符は車内で買って下さいとのこと。大洗鹿島線の車内で乗り越し精算してもらおうかと思っていたんですが、乗車する際のシステムが変ってしまったようです。

階段を降りると大洗鹿島線のディーゼルカーが入線済でした。約20年ぶりの再会です。

車輌番号は「6012」 これは私の記憶が正しければ第三次増備車だな。開業当初は「6001〜6006」とキハ20系を改造した「2001〜2004」が配備され、その後「6007、6008」が増備され、「6009〜6012」が増備されたように思います。鉄離れしてた時期とはいえ、その辺はしっかりチェックしてましたね(汗)

早速乗車。お昼なのに結構な乗車率。車掌さんが居たので新鉾田までの切符をお願いすると、取り出したのは携帯端末機。レシートみたいな頼りない切符が発行されました・・・。車内補充券を期待していたのに残念。技術の進歩を認めるしかありませんね。780円か・・・私らの時は640円でした。あの頃に比べて140円も値上がりしてるんだ。

それにしても車掌さんの若いこと。私らの時代は爺さんやおいちゃんばかりでした。きっと国鉄から流れてきた方が多かったんでしょうね。通学で毎日乗っていると、車掌さんとも顔見知りになり気軽に話せて楽しかったなぁ。鉄な話は全くしなかったですけど。今でも何人かは覚えてます。 もう退職してるんだろうな・・・。

ちょっと前に、国土変遷アーカイブで色々見ていると、友部駅でアヤシイ形の線路っぽいものが写っているのに気が付きました。駅舎の反対側にある側線を一辺とした三角形。もしやこれはデルタ線? ググってみても当時のリアルな情報が挙がってこず、どうやっらあったらしいという程度しか調べられませんでした。あれから数年。国交省のWebGIS画像を見ると既に撤去されてる感じだし、Google mapなどでを見ても何となくわかる程度。今回、たまたま経由地になったのでダメ元で探索してみました。

デルタ線とは、蒸気機関車の向きを変えるためにΔ(デルタ)状になった線路のことをいいます。トライアングル線や三角(さんかく)線と呼んでもいいような気がするんですが(汗)。地盤が緩かったりしてターンテーブルが設置出来ない所に置かれたそうです。九州では肥前山口駅にあったそうです。

まずは国土変遷アーカイブの画像を見てください。

●1946年
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M177-A-7&photono=81

●1961年
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MKT6110&courseno=C6&photono=8

デルタ線が分かりましたでしょうか?
次に国交省の1974年のWebGIS画像です。

これを頭に入れて探索してみました。

橋上駅の改札を出ると、デルタ線があった方向に向かって通路と駅舎が出来ていました。
比較的新しい感じです。通路からは構内が一望出来ます。側線が多いのに驚きました。
↓こちらは水戸側。左の建物はJTの工場。

デルタ線跡のすぐ横に太平洋セメントがあり、引込線があったようです。
↓こちらは小山側

この場所を見ると、画像右下に向かって柵と道路がありますが、そこがデルタ線の小山側のの線路の名残だと思われます。正面には太平洋セメントの引込線跡があります。デルタ線と引込線がクロスしていたとは思えないので、デルタ線廃止後に引込線が敷かれたと考えられます。

かつてのデルタ線の内側は綺麗に整備されていました。

新しい駅舎から水戸側を見てみると、JTの専用線が見えました。

ちょうどユンボがの裏にある木が斜めに並んでいるのがわかります。
そこが、デルタ線水戸側の線路の名残だと思われます。
駅を出てデルタ線の頂点へ行ってみましたが、道路になっているので分かりませんでした。ただ、JTとの境界は緩やかなカーブになっており、空中写真などを総合的に考えると、ここがデルタ線だったことが想像出来ます。

おそらく蒸気機関車が廃止になるまで残っていたんでしょうが、もうかなり昔のことなので、決定的な遺構は見つかりませんでした。辛うじて土地の形状でわかる程度でした。デルタの底辺付近から駅を見てみると、太平洋セメントへの引込線へ続いていたっぽい線路が残っていました。

底辺付近に新しく建てられた駅舎。

遺構が無くて残念でしたが、アヤシイと思っていた場所を実際に見れたのは良かったです。
なかなか来れる所じゃないですしね・・。
探索を終えて、次は鉾田に向かうために常磐線に乗ります。

34.SL再び

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10時09分/ 741M・勝田行き発車。
列車は4両編成ですが、何となく先頭車の運転室すぐ後、ロングシートの一番端の戸袋窓があるところに着席。仕方なくロングに座る時、1人の時は必ず端っこに座ります。両サイドに人が座って、間に挟まれるのはあまり好きじゃないんですよね・・。前方の運転室には、運転士の他に指導員っぽい方が2人乗っていました。運転士は新人さんでしょうか?
さて、水戸線は小山から友部までですが、この列車は常磐線の勝田まで行きます。小山発の列車の半分以上が、常磐線の水戸・勝田・高萩まで運転されているようです。出発後、しばらくすると車内の電気が一斉に消えました。そうか、ここにもデットセクションがあったんよね。すっかり忘れてました。水戸線から小山駅を経由せず東北本線へショートカットする短絡線跡があったはずなんですが、これも見るのを忘れてました・・・。
列車は小田林駅、結城駅と停車。次の東結城駅では、えらく停め方が荒かった。
窓から外を見ると「4」の停車位置目標が目の前に(汗) 微妙にオーバーランしてるようです。

前方を見ると、運転士さん、ちょっと焦ってる感じ・・・。
なんか空気重そう(汗) この後も注意してしっかり運転して下さいよ〜。頼みますばい。

次の川島駅は構内が広く側線がいくつも並んでいましたが、雑草が一面びっしり生えており使われてない感じ。廃線好きにはたまらないシーンですね(笑) 奥には駅に隣接している工場がりました。たぶんこの工場の引込線なんやろうな。

じっくり見ていると、雑草に埋もれるようにして「0」キロポストが残っていました。

架線柱も残っているし、つい最近まで使われていたような感じでした。

帰って調べてみると、駅から見えていた工場は日本コンクリート工業川島工場で、さらに空中写真で確認してみると、そこへの専用線から分岐して鬼怒川の河川敷に向かって引込線があったようです。川砂利や川砂でも採取していたんでしょうか。近くに住んでたなら間違いなく探索しにいってますね。
次の玉戸駅は1面1線の駅。いかにも後から開業させましたって感じのホームで、香椎線の香椎神宮駅や日田彦山線の一本松駅みたい。駅舎はしっかりした感じでした。
次は下館駅。駅に近づいてきたときに、ふと前方の窓を見ると黒い煙が上がっていました。

火事でも起こったのかなと思って、立ち上がって貫通扉の窓から見てみると・・・
なんと蒸気機関車の煙でした!

そうか、下館駅は旧真岡線の真岡鐵道の起点で、SLが走ってるっても前に聞いたことがあったわ。昨日のSLみなかみ号に続いて、真岡鐵道のSLにも遭遇するとは! 真岡鐵道のホームと水戸線の停車位置は離れているようで、先頭車に乗っているせいもあって、下館駅到着時には、かなり後ろの方にC12と50系客車が停まっていました。無理とは分かっていましたが、とりあえず真岡鐵道のホームに向かってダッシュしてみた。ホームに出た瞬間、蒸気機関車独特のあの匂いが漂っていました。

しかし、入れ替え用のDE10をと50系客車の後ろ姿を撮っただけで時間切れ(汗)
DE10の白地のナンバーは新鮮に見えますね。九州のDLは赤地のナンバープレートですから。
下館駅を出ると、新治駅、大和駅、岩瀬駅、羽黒駅、福原駅と停車。途中の岩瀬駅は廃線となった筑波鉄道が乗り入れてましたが、座っていた位置が悪かったのか、その跡はさっぱりわかりませんでした。もうかなり前ですからねぇ・・。次は稲田駅。

稲田で思いつくのが「稲田御影」建築・土木ではおなじみの石材です。ホームには「INADA」と切り抜かれた稲田御影石が置かれていました。

記念撮影用かな?

駅舎の柱に掲げられた古い木製の駅名標が素敵です。

次に笠間駅、宍戸駅と停まっていき、進行方向右手から常磐線が合流したところで友部駅に到着。

長距離片道切符上では、ここから常磐線を上って我孫子駅まで行き、成田線に乗り換えて成田駅に行くルートですが、今回は鹿島臨海鉄道経由で鉾田に寄り道するので、友部〜我孫子〜成田間は権利放棄します。もったいない?と思う人が居るかもしれませんが、切符は距離が長くなるほどキロあたりの運賃が安くなるので、あえて通しで買っています。友部〜水戸〜鉾田〜成田は新たに切符を購入します。とりあえず友部駅で下車印をもらって外に出てみます。

33.北関東横断

Category:たびぼうろぐ 2010.10 コメント(2)

昨日は夕方から深夜まで飲み続け、寝たのは午前3時をまわっていたような・・。しこたま飲んだ割には、ほろ酔いぐらいの感覚だったなぁ・・。翌朝バタバタしないように、寝る前に荷物の発送準備をしてフロントに預けてから寝ました。あれだけ飲んだのに、朝はバシッと6時過ぎに目が覚めました。寝過ごしたら大変な事になるからねぇ。とりあえずシャワーを浴びて、朝食バイキングでがっつり腹を満たして出発準備。ふと、寝る前に預けたスーツケースのカギをかけたか不安になってフロントへ。まだ集荷前だったので奥から持ってきてくれました。するとやはりカギが閉まってませんでした。危なかった〜。まだみんな寝てるんだろうな・・と思いながら、ホテルを後にして高崎駅へ向かいました。

長距離片道切符は昨日の新前橋で途中下車したままになっているので、高崎から新前橋までの切符を買って入場。高崎駅は、上越線、信越本線、高崎線、両毛線、吾妻線、八高線、上越新幹線、長野新幹線、上信電鉄の列車が集まる一大ターミナル駅。色んな形式の列車を見ることが出来ます。今日、最初の列車は両毛線・小山ゆき。新前橋から小山間が両毛線ですが、全ての列車が高崎発着になっています。これから乗る両毛線の列車はセミクロスシートの211系でした。

初っぱなから107系のロングが来たらガックリくるところでしたよ(笑)

なんと、先頭車輌はクモハ211-1001と1000番台のトップナンバーでした。これは朝から気分が良い。

この車輌に乗ることにしよう。少し時間があるのでホームを探索。

東京側のホームの端に見慣れぬ白い列車が止まっていました。パンタは無いし・・あ、これはもしかして八高線の気動車? いつだったか、東京在住の弟が「首都圏の気動車」って写メ送り付けてきたのを思い出した。

えらくスマートなイメージの気動車やね。首都圏って言ったらやっぱアレでしょ?タラコ(笑)
気が付いたら発車時刻が近づいていたので、最後尾の車輌に乗車。

8時05分/小山行き・439M発車。
新前橋から前橋大島までは高架を走る。車窓もだんだん畑率が高くなり長閑になってきました。伊勢崎駅も高架でした。聞いたことがある駅名だなぁと思ったら、オートレース場がある街でした。続いて、国定駅、岩宿駅、左手には貨物用か保線用の側線があって、昔ながらの駅っぽい雰囲気が残っていました。

岩宿駅には初めて見るタイプの危険品庫がありました。

よく見るのは煉瓦積みで瓦葺きのタイプですが、ここのは切石積みで屋根は半円形の珍しい形をしていました。石は大谷石でしょうか?
長閑な車窓から再び民家が増えてきて、渡良瀬川を渡って市街地の高架を上がると桐生駅に到着。ここも高架駅。同じホームの反対側には、かつての「足尾線」わたらせ渓谷鉄道の列車が停車中でした。

ここから足利駅、佐野駅まではそこそこの市街地を通っていきました。佐野駅の直前で進行方向左後から急カーブで近づいてくる線路が。そして、その線は佐野駅では両毛線のホームと並んで、少し空けた所にあるホームへ続いていました。東武佐野線とのこと。軌間がJRと同じ1,067mmで同じ構内(土地は分かれてるんでしょうけど)にあるように見えるので、両毛線の支線と言っても全く違和感がありませんでしたね。そして、佐野駅を出るとすぐにまた左前に離れていきました。その線を目で追っていると、上り勾配になってるようで架線が見えていました。そして、盛土が近づいきて両毛線と交差しました。橋台は煉瓦製。かなり古い時期に建設されたんですね。両毛線もそうですが、東武も結構古い時代に建設されていたようです。
次の岩舟駅はこじんまりした小さな駅舎でしたが、構内を全体的に見た感じ雰囲気的に古そう。駅横には側線があって、直感的にかつて貨物ホームがあったなと思いました。次の大平下駅を過ぎると栃木駅。

ここは東武鉄道のホームが並んだ高架駅。東武の方がのりばが多い感じ。駅周辺は田畑と市街地が混在してて面白い。栃木駅出発後、東武は両毛線の頭上をクロスして、北向きへ離れていきました。
次の思川を過ぎ、左に「おやまゆうえんち」跡に出来た商業施設を見ると、風景が長閑な田園地帯から街に変る。目の前に東北新幹線の高架が見えてきて、東北本線と合流すると小山駅到着。両毛線走破。ホームは新幹線の高架下にあって頭端式のホームでした。東北本線や水戸線のホームからはちょっと離れてる感じ。ホームを歩いていると、昨日一緒だった友人から携帯に電話がかかる。
「今どこ?まだ寝てるの?みんな集まってるよ〜」
あれ?言ってなかったけ?8時前にはホテル出て茨城に向かってるんやけど・・・みんなに言ったつもりだったけど、伝わってなかったみたいね・・・スマン。わざわざ電話くれてありがとう。
私が列車で行くっていうのは何人かに言ってたけど、披露宴で飲んでる時に「おっちーは鈍行(18きっぷ)で来たんやろ?」って言われたのには笑ってしまいました。18きっぷシーズンじゃないし、もう貧乏学生じゃないんだから、特急ぐらい使わせてくれよってね(笑)

ここでも下車印をもらうために一旦出場。すると構内に宇都宮名物の餃子の売店が目に入りました。クール便で発送してくれるとのことだったので、家へのお土産として冷凍餃子を購入。用を足した後、再入場。ここの駅も東北本線、水戸線、両毛線、東北新幹線と鉄道が集中しているターミナル駅なのでホームが多い。水戸線は15・16番のりば。階段を下りてみると既に2本の列車が入線済みでした。車輌は福岡でもおなじみの415系1500番台。

残念なロングシートだけど、今回は国鉄型車輌なので許ス(笑)
最近は、水戸線や常磐線などで走っていたものが、はるばる福岡までやってきて、筑豊本線にも入線してたりしますね。こうやって並んでいる様子を見ると福岡に居るような錯覚に陥ります。

次は水戸線走破です。

丸山変電所跡を出発してすぐの所に踏切跡がありました。
周囲には変電所以外に何も無さそうだし、変電所用のアクセス道路だったんでしょうか?

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前の前に見えている橋は上信越自動車道。その下をひたすら歩き続けます。
勾配は少し和らいだ感じがしました。しかし、まだまだ長い下り坂は続く・・・。
↓横川が近くなった所で振り返ると、さっきくぐった高速の橋が遠くに見えていました。

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少し左カーブになってきたところで、碓氷峠鉄道文化むらに屋外放置展示してある車輌群が見えてきました。ようやっと下まで降りてきたかぁ・・・。バイタリティは限界に近づいていました。それもそのはず。時間は、とっくにお昼を過ぎてて13時を過ぎてました。
「そういえば、お昼ご飯食べてないわ・・・。」
腹が減るのも忘れる程、夢中で歩いていました。雨の中、重たい靴を引きずりながら坂を降りるのは、かなり体力を消耗しましたね。煉瓦遺構に小躍りし、気分的には持ち直した場所もありましたが・・・。ゴールはもうすぐ。頑張ろう。

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側溝のフタにラックレールが使われているのは昔から有名ですね。
今まで本でしか見たことがなかったですが、今回初めて生フタを拝むことが出来ました(笑)

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沿線の民家には定番のホーロー看板が色々と・・

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線路ではEF63の運転体験が行われていました。面白そうだなぁ。横川駅に着いた時は、碓氷峠鉄道文化むらに入園するつもりだったんですが、もう体力も気力も限界だったし、時間的にもゆっくり見て回れないな・・・と思い、今回は諦めました。老後の楽しみに取っておきます(笑)
そして・・・・ついにゴーーール!!

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13時30分到着。
11時45分にめがね橋バス停を降りてから、1時間45分かけて降りてきました。横川駅から乗る電車の時間は13時51分。ちょうど良い時間になりました。文化むらに行けなかったのは残念ですが、滞在時間が限られていたから仕方ない。そのまま横川駅へ向かいました。
お昼ご飯はもちろん、おぎのやの「峠の釜めし」
駅横に売店があったので、そこで1コ購入。2つ食べようかと思いましたが、この後、高崎で行われる披露宴で美味しいものが食べれなかったらいけないので(笑)1コで我慢。あと、家と嫁の実家用に文化むら絡みのお菓子を購入。高崎駅までの切符を買って入場。しばらくホームのベンチで休憩。すると、折り返し高崎行きとなる列車がやってくる音が聞こえました。またロングのアレか?と思って見てみると、おっちーニヤリの湘南色がやってきました。おぉ、これを待ってたんよ。帰りもロングだったら疲れも倍増するところだったわ(笑)

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下車客はそこそこ居ましたが、乗車客はそんなに居ませんでした。
なので、ボックスシートも1人で占有。ゆっくりとご飯が食べられます。
先程買った釜飯を早速いただきます!!

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よほど腹が減っていたのか、中身の写真を撮るのも忘れて食べ始めてしまい、あっという間に完食してしまいました・・・。容器は益子焼なんですねぇ。知りませんでした。お土産に持って帰ろう。

列車は勾配を下っていき、高崎へ向かう。旧線廃線探索(と言うと、ぎょうらしいので「アプトの道ウォーキング」の方が表現的にはいいかも)の疲れと、腹が満たされた満足感で、高崎に着くまでボーッとしてたので、途中のことはあまり覚えていません(汗) 気が付いたら高崎駅に着いていました。

改札口を出て、ホテルに向かうため連絡通路を歩いていると、たまたまそこで待ち合わせをしていた今日の披露宴に出席する友人と遭遇。福岡に居るのに何かと忙しくてなかなか会わない奴や、会うのは大学卒業以来なんて奴も居て、気分は学生時代に戻りました。疲れも飛びましたね。ホテルに着いてすぐにシャワーを浴び、少しベッドに横になって休憩。危うく寝るところでしたが(汗) その後、スーツに着替えて、挙式・披露宴会場へ。大学時代につるんでいた仲間、全員集合がするのは久しぶりです。その後、2次会、3次会と飲み続け、夜中の2時過ぎまで楽しい時間を過ごしました(汗)

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Aちゃん、おめでとう。末長くお幸せに。あなたが結婚しなかったら今回の旅は無かったよ(笑)

●新線・旧線合流地点〜丸山変電所跡

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しばらく休憩した後、新線下り線跡をくぐって新線上り線跡の遊歩道へ進みます。
下り線跡のコンクリート橋には銘板が残っていました。

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「王子久保橋梁」というそうな。

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上り線跡にもコンクリート橋がありました。こちらは「王子久保こ道橋」
下り線跡の約半年後に造られています。

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遊歩道は上下線跡の間から線路の方へ登っていきます。ここにもサルが出没するのか(汗)

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↓遊歩道と上り線跡の合流点から軽井沢側を見たところ
線路も架線もそのまま・・・こちらの方が萌えますね(笑)

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ここからは見通しが良く、気持ちいいほど真っすぐな下り坂。

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ふと下り線跡に目をやると勾配標が。数値はもしかして・・・。

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拡大してみると・・・・キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!! 66.7!!

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ヘッポコズームの粗い画像でスマンです。確かに肉眼で見ても66.7と表示してありました。
感激の瞬間です(笑) 足の疲れもこの時だけは吹っ飛びました。
さらに進むとキロポストが残っていました。いいねぇ。

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さらに進んで振り返ったところ。
軽井沢からずっとこんな勾配が続くなんてね・・・ホント、よく鉄道を通したもんだなぁと感心しますよ。

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そこから足の痛みに耐えながらスローペースでひたすら歩きます。痛みはさらに酷くなる。おかしいなと思って脱いでみると、マメが出来ていました。靴の選択を誤ったのが悔まれる。トホホ。それでも先へ進まないと・・・。この坂道は苦痛でしたね。歩いては止まって、歩いては止まってを繰り返しているうちに前方に「丸山変電所跡」が見えてきました。下り線跡にはトロッコの駅がありました。

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レンガスキー感激です。修復されているとはいえ、立派な煉瓦遺構です。
しばらくここで休憩。建物の周りをくまなく観察する気力が無かったので、サクッと見学するに留めました。九州鉄道記念館になっている旧九州鉄道本社の煉瓦遺構に勝るとも劣らない素晴らしい建物です。全体的なデザインはもちろん、細部まで凝ったデザインも設計者・職人のセンスが光ります。

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まだまだじっくり見たかったけど、スローペースになってしまい、あまりゆっくり出来ないので、後ろ髪引かれる思いで丸山変電所跡を後にしました。

●第2号トンネル

少し休憩して先へ進もうとするも、足にかなり疲労が溜まっているようで、歩く度に足の裏が痛い。こんなに歩きやすい道とは思わなかった・・。重たい靴で歩くのはしんどいので脱ぎたい気分になりました・・。事前に下調べしておけば良かったんですが、廃線探索の楽しさである「初めて見た時の感動」を味わいたかったので、信越本線旧線(アプトの道)は歩ける・・・という最低限の情報だけ持って、あえて詳しく調べずに挑みました。今回は失敗ですね(汗)
さて、次の第2号トンネルへ進みます。ここも帯石・笠石以外は煉瓦積みの坑門。パラペット部分に亀裂が入っていて、他の坑門に比べて傷みが進んでいました。

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中は、これまでと違って白色光の照明で照らされていました。また、腰のあたりから路面を照らす照明もあり、他のトンネルと雰囲気が全然違ってて、照明の色の違いで遺構の見え方がこんなにも変わるのかと思いました。白色光は煉瓦には合わないなと感じましたね。横川側の覆工は鉄骨で補強されていました。

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トンネルを抜けると何故か遊歩道がコの字型に折れていました。振り返って横川側の坑門を撮ろうとしたら、耳元で「ブーーン」と低音の翅の音が聞こえました。途中でスズメバチに注意の看板を見かけてたので、慌てて猛ダッシュ(汗) 息が白くなるほどの気温だったのに、まだ虫が飛んでるのか!おかげで、坑門の写真はこんなに遠くから・・。こちらも軽井沢側の坑門と同じ造りのようです。

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●碓氷第二橋梁

重たい足を引きずりながら、しばらく歩いていくと「碓氷第二橋梁」の上に来ました。出発点の「碓氷第三橋梁」と比べると規模が小さい橋梁ですが、なかなか重厚感のある遺構でした。周辺にはアーチ橋の全貌を見れる場所が無く、一歩間違えば転落の危険がある法面から見るしかありませんでした。

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写真じゃ分かり難いですが、アーチ部分の巻厚はハンパ無い厚さで驚きました。コンクリートで補強している部分もありましたが、見た感じ、元々の厚さは1/3程度かと思います。旧線の殆どの橋梁で補強工事が施されたようです。碓氷第三橋梁も今は重厚感のある姿ですが、開業当初はアーチも橋脚もペラッペラな感じだったみたいです。

●第1号トンネル

しばらく歩くと「第1号トンネル」が見えてきました。

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ここも帯石・笠石以外は煉瓦積みの壁柱・ウィングを持った立派な坑門でした。

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中は第2号トンネルと同様に白色光の電灯で照らされていました。覆工の補修はあまり無かった気がします。路面の一部には電灯で照らされた排水路があって、水が流れていました。建設当時からあるものだと思われます。今も機能しているところが凄いですね。

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横川側の坑門は第5号トンネルの軽井沢側と同じ造りで、覆工以外は石積みで両ウィングを持った美しい姿。山岳地帯へ突入する最初のトンネルに相応しい堂々とした坑門でした。

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トンネルを抜けてしばらく歩いていると前方に新線跡が見えてきました。その手前には「峠の湯」があって「碓氷峠鉄道文化むら」から新線の下り線を走るトロッコ列車の駅がありました。この列車は文化むらの園内遊具として運行しているので、文化むらに入場しないと乗れないようです。写真は少し下った位置から軽井沢側を見たところ。左に峠の湯。右にトロッコの駅があります。

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同じ位置から横川側を見たところ。新線跡が近づいてきます。

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線路の横に立つと勾配になってるのがよくわかります。
手前の線路はトロッコの駅に続きます。

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トロッコは下り線から分岐して折り返すようです。新線の跡の分岐の先は藪化してました。うちのサイト的にはそっちで藪漕ぎする方がいいんですが・・・(汗) 残念ながら立入禁止でした。

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アプト時代の旧線あとはここまでで、横川までは新線と同じルートになります。アプトの道はここで新線の下を通って、遊歩道化された上り線跡を進みます。

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足の痛みが酷くなってきたので、ここでもしばらく休憩しました・・・。

●第5号トンネル・第10カルバート

碓氷第三橋梁を後にして第5号トンネルへ進む。

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壁柱を左右に持つ立派な坑門です。覆工は単線標準の煉瓦4枚巻きで仕上がっています。スプリングラインを境に煉瓦の積み方が違っているのも確認出来ました。中に入ってみると、所々に照明が設置されていて、さらにはバラストが無くて普通に歩けました。今まで探索した廃線トンネルは、バラストが残っていたり、線路がそのまま残っているような所が殆どだったので、なんか物足りなさを感じてしまいました。靴も廃線探索用にごっついヤツを履いてきてたんですが、ここまで整備されているなら普通の運動靴で問題ないやん・・・。

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壁にはこのような何かを通していたような跡がありました。これも饋電線を通していたんでしょうか? 坑門の煉瓦部分にも何か設置されていた跡がありましたし。

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覆工は至る所で補修されていました。明治時代の構造物ですからねぇ。

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↓横川側の坑門。こちらは全て煉瓦で出来ていました。軽井沢側にはあった要石が無い。

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_tabilog_224.jpg第5号トンネルを抜けるとすぐに第10カルバートを渡ります。格子柵に貼られた説明文によると、この線では径間4.57メートル以下のものをカルバートと呼んでいるそうです。換算すると15フィート以下ってことですね。横川〜軽井沢間で21ヶ所あるようで、その殆どが取り壊されていたり、作り替えられたりしているそうです。説明文に載っている写真は第11カルバートで、開通時の原形を留めており、焼過煉瓦を織り交ぜて積まれた装飾性の高いカルバートだそうです。見てみたいなぁ・・。今立っている第10カルバートを横から覗いてみると、アーチ下部がコンクリートで補強されているのが確認出来ました。

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●第4号トンネル

少し歩くと第4号トンネルが見えてきます。トンネルの先にはその次の第3号トンネルも見えていました。軽井沢側の坑門は全て煉瓦積み。こちらも壁柱を持った立派なものでした。要石は無い。

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第5号トンネルと違って直線なので、先が見通せて歩きやすい。

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第4号トンネル横川側の坑門。こちらは覆工以外は石積みでした。

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●第3号トンネル

第4号トンネルを抜けるとすぐに第3号トンネルに入ります。こちらも覆工以外は石積みの立派な坑門。

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ここも補修箇所がいくつもありました。

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横川側の坑門。こちらも覆工以外は石積み。

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●第3号トンネル〜第2号トンネル

ココを抜けるとすぐに国道18号線の旧道のカーブが見えました。来る時にバスから見たトンネルはココだったんですね。道路と比べるとアプトの道の勾配具合がわかりますね。

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下り坂はさらに続き、第2中山道跨線橋の下を通ります。ここでも勾配具合がわかります。

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先へ進むと碓氷湖が近くに見えてきました。碓氷第三橋梁から延々下り坂で、楽勝と思っていましたが、靴の選択を間違えたため、重たい靴で普通の下り道を歩くのは思いのほか辛く、前日の疲労も少し出て来て、足の裏と腰が痛くなってきました・・・。第2号トンネルを前にして、ちょっと休憩。写真の坂道の上の方には東屋があったんで、そこで休憩すればよかったんですが一気に下ってきてしまいました(汗)

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左の道路が下り勾配なので、アプトの道が余計に急に見えます。

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設置されている転落防止柵の勾配をアップで撮っていたので、後日、画像をPC上で、支柱が垂直に立っているとして、ザクッと測ってみると「3度勾配」でした。普通に設置する柵ならこの程度はよくある勾配ですが、パーミルにすると「52.4‰」 納得(笑)
奥に見えているのは碓氷湖。ここにも遊歩道があるようで、雨の中、そちらに向かっているグループがいました。大変景色が良く、紅葉時季になると綺麗なんでしょうねぇ。

おっちー、ついに碓氷第三橋梁の上に立つ!!

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写真じゃわかりにくいかもしれませんが、思った以上に長い下り勾配になっていました。
66.7‰って、こんなに急なんだと驚きました。

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格子柵には現役時の写真や工事の写真などが貼り付けられていて、往時を偲ぶことができます。橋梁の旧国道側を見てみると、先程通ってきた歩道が下の方に見えています。あんな所から登ってきました。かなりの高度差でしょ。高欄の下にはラックレールを使って何かを引っかけていたよな跡がありました。通信ケーブルでも通していたんでしょうか? 後日、家で廃線本を読み返していたら記述がありました。饋電線のブラケットとして使われていたそうです。

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高欄の内側にもその痕跡が残っていました。

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橋の中央付近から山側を見ると、遠くに信越本線の新線跡が見えました。

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こちらは重厚な煉瓦アアーチ橋ですが、あちらはスマートなコンクリートアーチ橋。技術の進歩を感じますね。あちらは今でもレールや架線が残っているそうな。廃線探索的にはあっちも歩いてみたいなぁ・・。

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_tabilog_218.jpg 横川側から見た橋梁の山側。背後はすぐ山なので、日光が当たらないせいか、手前の高欄の笠石にはコケがびっしり生えていました。雰囲気的にとてもイイ感じ。

何年も鉄道遺構を追い続けていますが、遺構と一緒に自分が写った写真って無いんですよね。銀塩写真時代のアルバムを見ても、デジカメデータを見ても、私は殆ど登場しません(笑) なので、今回はしっかり撮りました。標識柱の頭にデジカメを載せてセルフタイマーをセットしてダッシュ!

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とてもお見せ出来る顔では無いのでモザイクにしてますが、その顔は到達感に満ちた顔をしていました(笑) 名残惜しいけど、先を急ぎます。次は5号トンネル。

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ついに来ました。碓氷第三橋梁跡!!
いまさら説明不要の信越本線旧線の巨大鉄道遺構です。
あまりのスケールの大きさに圧倒されて、しばらくバス停から動けませんでした。バス停のそばの狭い空き地には車が数台停まっていて、その方たちもそこからアーチ橋を眺めていました。まだこの場所から見たかったけど、時間の都合もあるので先へ進む。

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煉瓦の使用個数は200万個と云われています。そのとんでもない数の煉瓦を、遠方から山奥まで運び、それを職人さんたちが1つ1つ丁寧に積んで造り上げたんですよね。そう考えると、想像を超えた途方もない作業に驚きと感動をおぼえ、またしばらく立ち止まって見上げてしまいました。当時のトップレベルの技術者と職人を集結して造り上げた橋梁が、今も尚こうやって残っていることは素晴らしいですよ。ホント。

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国鉄時代の昭和45年に設置された案内板がありました。明治25年に竣工しています。今の筑豊本線や鹿児島本線の一部が開業した翌年に、こんな巨大な煉瓦構造物を造ってまで、この峠に鉄道を通そうとしていたなんて信じられません。

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橋脚の大きさも半端じゃない。
特徴的な突起物(建設時の型枠の台座)は書籍で見るよりも実物は大きく感じました。

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本ッッッ当に大きいんですよ。もうね、言葉で表現しようがないです。

_tabilog_204.jpg天空に架かる橋ですよ。
感動的な美しさです。
方向的はアーチの末端部分が横川側になります。そこにはトンネルの遺構も見えています。雨は少し降ってましたが、歩いている人は登ってくる人、下る人、そこそこいました。晴れてれば、もっといたかもしれませんね。

アーチの下を通って、整備された歩道を歩きアーチ橋の上へ進みます。
アーチをくぐったところで振り返ってみました。旧国道から見える綺麗な姿とは違って、木々に囲まれ鬱蒼とした中に架かっているように見えて、陰の雰囲気を持ったとても廃線らしい姿でした。

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上へ登る歩道には比較的新しい標識板が設置されていました。

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え?猿がいるの?襲ってきたらどうするんだよ(汗)
右端のプレートには「熊出没注意」マジですか?(滝汗)
どうか、出てこんでください・・・壺に入ったハチミツでも舐めてて下さい(笑)

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碓氷第三橋梁の上までは階段ステップで登っていきます。これが急で辛かった・・・

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今まで列車に乗りっ放しで、ろくに動いてなかったので、登ってる最中にもう疲れてしまいました。上に着いた頃には息切れしてました。情けない・・・。しかし、その疲れも吹っ飛ぶ遺構が目の前にありました。碓氷第三橋梁の軽井沢側にあるトンネルです。標識柱が立っており、名称は「第6号トンネル」というそうです。重厚感たっぷりの煉瓦トンネル。横川から続いてきたアプトの道はここまでで、この先は柵がしてあり進めません。

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柵が邪魔なので(汗)横に少しずれて撮ってみました。
いやぁ〜素晴らしい遺構ですねぇ。筑豊の廃線は山を貫く場所が少なく、煉瓦製のトンネルは上山田線と貝島の専用線にあった(炭鉱の運炭線はあったかもしれませんけど・・)ぐらいでした。なので、こうやって簡単に歩いて見れる遺構は無いので、とても感激しました。

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この先を進むと「熊の平信号場」へ抜けるはずですが、残念ながら今は通れません。
今度来た時には通れるようになってるといいな。

26.いざ碓氷峠へ

Category:たびぼうろぐ 2010.10 コメント(2)

10時23分/ 131M・横川行き発車。
乗客は、大きな荷物を抱えたハイキングに行く感じのグループ、家族連れ、カップル、女子高生、おばちゃん、おいちゃんと多種多様。北高崎駅、群馬八幡駅と停まるたびに客はどんどん捌けていって、安中駅に着いた時にはロングシートに空きが出来るほどになりました。安中駅の裏には大きな工場があって引込線がありました。その側線の末端部分は雑草が少し生えてて、ちょっと萌えました(笑)
次の磯部駅を過ぎた辺りから山が近くなったような気がして、線路も登り勾配を進んでる感じがしました。あとで知ったんですが、次の松井田駅は日本最古のスイッチバック駅だったそうです。そりゃ勾配だったはずだわ。

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今の駅はスイッチバック解消時に移設されたようですが、前は次の西松井田駅があるところから市街地側にバックした位置にあったそうです。西松井田駅を中心に本線、旧松井田駅への線、高崎側から松井田駅へ向う突っ込み線があったそうです。残念ながら今回の旅では事前に調べてなかったので全く気付かずに乗ってました・・。
西松井田駅を過ぎるとどんどん山深くなっていき、勾配もそこそこありそう。登りつめた所からだんだんと構内が広がってきて横川駅に着きました。

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当たり前だけど、ドンつきの行き止まりになっていました。九州なら巨大な車止め標識がボン!ボン!ボン!と並んでるところでしょうね。碓氷峠廃止以前はここからさらにレールが延びて峠に挑んでいたんだよな・・・。

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駅舎は想像していたよりも小さくて古めかしいものでした。ここまで来る途中の駅もそうでしたが、ホームの長さに過去の繁栄ぶりを感じました。駅前には釜飯で有名な「おぎのや」があり、その横には歯車がついた車輪が展示していました。

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パッと見、アプト式の電気機関車のやつ?って思いましたが、説明板を読むと「EF63」のものでした。ラックレールはレールの中心にあったので、これじゃないですよね。
15時には高崎に戻らなきゃならないので、現地滞在時間は2時間55分。ここから「アプトの道」を登って「めがね橋・碓氷第三橋梁」まで行くには時間的には大丈夫そうですが、ずっと登りなので疲れて途中離脱する可能性も考えられる・・・しかも、昨日の疲れも無いとは言えない・・・ここはバスで「めがね橋」まで行って下ってくる方がいいかも。下る方がラクチンだし(汗)、帰りの電車に間に合わせるための調整も出来る。そういう訳でJRバスに乗るためにバス停へ移動。雨は小雨と言うより霧雨で、傘をさすかささまいか悩むほどの微妙な降り具合。新前橋でやっと傘を買ったから無問題(笑)
ちょうど車止めの裏側付近を歩いていると、スロープ状になったホームの先端が見えました。

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バス停のそばを流れる川には煉瓦橋台が並んでいました。

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レンガスキー大興奮のシーンですが、今から向かう場所のことを考えると、この程度の煉瓦で喜んでいてはいけません(笑)

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横川駅から「碓氷峠鉄道文化むら」へ向ってレールが繋がっていました。

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なんだか路面電車の併用軌道みたい。

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アプトの道を歩き終えたら「碓氷峠鉄道文化むら」へ行ってみよう。

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バス停で待っていると中型のJRバスがやってきました。このところJRバスといえば、真っ赤なバスしか見てなかったので、このカラーリングは嬉しい。このバスは、めがね橋を経由して軽井沢駅まで運行します。歩く気満々のシニアグループやカップル、観光客を乗せていざ出発。
バスは国道18号線の旧道を進み、途中、中山道の宿場・坂本宿、くつろぎの郷に停車。その後、急カーブで山を登り始めると、横にチラッとアプトの道とトンネルが見えました。テンション上がりまくりです(笑) いくつかカーブを過ぎた所で「めがね橋」バス停に到着。

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バスを降りて振り返ると、巨大な煉瓦遺構「碓氷第三橋梁」が目の前にそびえ立っていました。本当に思わず「おおおおぉぉぉぉ!すげぇぇぇっ!」っと声が出ました。レンガスキー大興奮ですばい。

25.ニヤリ@新前橋

Category:たびぼうろぐ 2010.10 コメント(0)

水上は温泉街ということで、駅前にはお土産屋が軒を連ねていました。土曜の朝ということで、まだ観光客の姿はありません。気温は少し低めなのか肌寒い。長袖を持ってきててよかった。路面は濡れているけど、雨は上がっている感じ。このまま持てくれるといいけど・・。

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さて、再入場して高崎方面の電車に乗り込もう。電車は既に入線済みで、水上で折り返して高崎行きになったようだ。この107系という電車も初めて乗りますが・・・ガックリなオールロングシート。ガラポンで白玉を出したような感覚だ・・。さっき乗ってきた越後湯沢方面からの客の大半が、この列車に乗り換えたようで、水上からの客もプラスされロングシートの着席率は100%近かった。仕方がないので、先頭車前方右のかぶりつき位置に立ちました。

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8時58分/732M・高崎行き発車。
水上駅から沼田駅間の車窓は、駅に停まるごとに少しずつ畑や民家が増えてきて、街の規模も大きくなってきてる感じ。沼田駅・岩本駅・津久田駅の間は利根川の流れに沿った区間があって綺麗な車窓でした。敷島・渋川と停まるたびに乗客が増えていき、吊り革握り率も非常に高くなっていました。その後も新前橋に着くまでも次々とお客が乗ってきました。途中、高崎方面に向けてカメラを向けている撮り鉄集団を見かけました。何か珍しい列車でも来るのかな? 車窓からは山が遠くなり、完全に市街地の中になってきました。左から両毛線が近づき、広い構内が見えてきて新前橋駅到着。
とりあえず、下車印をもらって出場。天候はまだ不安定な感じ。売店のお姉さんに今日の天気を聞いたところ「雨が降るかもしれませんよ」と言われたので、ようやくここにきて傘を購入。ビニール傘か、まぁ無いよりもよかろう、仕方ないなと思って手に取ると意外と長くて、これは使えそう。支払い時は「SUGOCA」で。こんな所でも使えるようになるとは便利になったものです。
新前橋駅から高崎・横川方面へ向かうには、乗車券の都合上、別に切符を買う必要があるので、券売機で横川駅まで買いました。そして、今回の旅で初めての自動改札機から入場。再びホームへ。時間調整の為、しばらくホームをブラブラ。駅の反対側には多くの側線が並んでいるのが見える。しばらくすると国鉄色の列車がやってきました。遠くてよく分からなかったけど、たぶん183系?9連程の長い編成。久しぶりに見た国鉄特急カラーに思わずニヤリ。すると、そこに両毛線から高崎行きの115系湘南色がホームに入線。さらにニヤリ(笑)

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停車時間が少しありそうなので「来る時に高崎側に向かってカメラ構えてる人が結構居たんですけど、何か珍しい列車が来るんですか?」と115系の車掌さんに尋ねてみると、なんと今日は「SLみなかみ号」が運転されるとのこと。車掌さんがご丁寧に時間を調べてくれました。ちょうど、この高崎行きの発車と入れ替わりで「SLみなかみ号」が新前橋駅に到着するそうだ。私が持ってきた時刻表は8月号で、秋の臨時列車は載ってなかったんですよね・・・。一本遅らせれば、ホームでSLを見ることが出来たんですが、それじゃ横川行きの電車に間に合わなくなるので、115系の車内から見ることに。

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10時08分/438M・高崎行き発車。
発車してすぐに一番向こう側のホームに「SLみなかみ号」が入ってくるのが見えました。撮影しようと、上段の窓を上に上げて(国鉄型はこれができるからイイ!)構えていたら、ちょうどホームの建物に遮られてしまってSLを撮影することは出来ませんでした。振り返って撮ってみましたが、あぁ、なんか黒いのが牽引してるなぁ・・程度の写真しか撮れませんでした。

アップにすると辛うじてSLってわかるかな(汗)

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このSLは「D51」とのこと。後に繋がってる12系客車がイイですねぇ!久しぶりに見ました。最後に見たのは筑豊本線から50系客車列車が無くなる時だったなぁ。あれは1両だけの便所対策だったし・・・あ、奥出雲おろち号に乗ったばかりだった・・(汗)あれも12系だったよね・・。登場時の姿の12系だけが連なっている列車を見たのは久大本線の客車列車以来かも・・。しかし、まぁ、こんな短時間に次から次に国鉄型車輌を見れるとは思いませんでした。

住宅街に点在する畑がだんだん無くなって、高層建築物が多くなったところで高崎駅到着。ここで信越本線の横川行きに乗り換えて、碓氷峠の煉瓦遺構を目指します。短い乗り換え時間だったので、急いでホームへ行ってみると、見えてきたのは残念なロングシートの107系。しかも、立ち客がいっぱいの状態。まさか、このまま横川まで行かないよね・・・。本線とは名ばかりの盲腸線になってしまった信越本線ですが、いくらなんでも107系は無いよなぁ・・。

8時10分/1726M・水上行き発車。
乗り込んだ先頭車の各ボックスシートには1〜2人座っており、駅弁をゆっくり食べるには気持ち的に落ち着かなかったので、仕方なくドアそばのロングシートに座りました。車窓から見える山々にはスキー場が点在している。あらためて、雪国なんだなぁと実感しました。早速、朝食としよう。

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越後湯沢で買った駅弁はこの「かにずし」

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中身はこんな感じ。まずはごはんを一口。うん?これは美味い!モチッとした食感がたまらなくイイ。米が違うだけで、こんなに美味いのか!?小市民なので「魚沼産こしひかり」というネームバリューのせいで気分的にそう感じるのかもしれませんが(汗) それにしても美味い。カニも思ったより量が多くて大満足です。味わいながらゆっくり食べることにしょう。
最初の停車駅は「岩原スキー場前」日本一長い駅名の駅は?と言えば、ココ思い浮かべる方も多いでしょう(笑) 実際は疾うの昔に抜かれていますが・・・。この駅は、上下線それぞれに片面ホームがある変った駅でした。ちょうど、筑豊本線の鞍手駅みたいな感じ。小さな駅舎がポツンとある静かな駅でした。出発後、列車は大きなカーブを進んでいき車窓もどんどん流れていき、山も近くなってきました。前方にスキー場が見えてきて、列車はそのすぐ横を通り始めました。すると、大きな駐車場のようなスペースとゲレンデの間に何両も繋がった客車が見えてきました。しかも旧型客車やん?なんじゃこりゃ?思わず箸が止まりました。

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すぐに携帯でググってみると、スハ43、スハフ42、オハ47がスキー客の休憩所として使われているそうな。エエエッ!こんな大量に旧客が保存・再利用されていたとは知りませんでした。こんなことなら、次の越後中里駅で乗り換えるように行程組めばよかった・・。時間的余裕もかなりあって下車可能だったのに。残念。

出発前、時刻表をめくりながら計画を練っている時、越後中里〜水上間の列車運行本数の少なさに驚きました。木次線に少し色が付いた感じの本数ですもんねぇ。昔は今のようにブツ切り運転系統じゃなく走行距離の長い列車ばかりで、もう少し多かった気がするんですが・・。

次は土樽駅。越後中里駅からはループ線で上っていきます。が、駅弁を食べるのに夢中になってたし、先頭車に乗っていたため列車全体がカーブして走行しているも分かりませんでした。気が付いたら土樽駅に着いてしまいました(汗) 周りはかなり山深くなってきました。次は川端康成の「雪国」の「国境の長いトンネルを・・・」の清水トンネルを通過して土合駅へ。このトンネルは本当に長く感じましたね。方向は逆ですが、清水トンネルを抜けた瞬間、一面銀世界って体験を一度してみたいものです。

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トンネルの中にホームがあって、長い階段を降りなきゃいけない駅として有名な土合駅ですが、それは越後湯沢方面の下り線で、水上方面の上り線は地上にあります。こちらの線は開業時の路線。複線化の際、新清水トンネルが掘られて、土合駅と湯桧曽駅はトンネルの中にホームがある構造になりました。残念ながら、今回は上り線に乗車中なのでトンネル内の駅を見ることが出来ませんでした。この駅では大きな荷物を背負った客が数名下車していき、乗車する客もいました。こんな山の中でお客がいるのか?と思ってたので、これは意外でした。

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この駅はかつては島式ホームだったようで、ホームの横には線路を撤去した跡がありました。架線ビームも複線+側線分と長い。先頭車に乗っていたため停車位置が悪く、駅舎を撮ることは出来ませんでした・・。

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駅舎と反対側の側線には脚の長いJR東日本タイプの駅名標がありました。
ここから次の湯桧曽駅までループ線で一気に下っていきます。
しかし、ここでも越後中里〜土樽間の時と同じ失敗をやらかしてしまう。ループを感じやすいように後の車輌に移動すればよかったものを、そのまま先頭車のドア横のロングシートに座って暗い車窓をボーッと見ていたために、気が付いたらループを下りていて湯桧曽駅に着いてしまいました(汗) 進行方向左側に座っていたので、眼下に見えていたはずの湯桧曽駅も拝めず・・。
湯桧曽駅を出ると次は終点の水上駅。車窓から見える川の流れが列車と同じ方向に向いていて、山越えして関東入りしたんだなぁと感じました。この川はもしかして利根川か? とても綺麗な川でした。何度か鉄橋を渡り、街並みが見えてきたところで水上駅に到着しました。ここでも乗り換え時間に余裕があるので、下車印を貰って外に出てみました。

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