2008年9月アーカイブ

GJ!!な動画

Category:廃線・未成線 コメント(8)
知ってる人もいるかと思いますが・・・

http://www.kita9-tv.com/00_01/sl_light.htm

ここの「秘蔵なつかしのSLフィルム」内にSL廃止直前の8ミリカラー映像が公開されています。当時のSLを知らない人なのでSL自体にはそう着目しませんでしたが、上山田線・室木線、旧駅舎、構内配線など、そっちの視点ではかなり萌えました(笑)

おっちー的見どころをチョイス

●筑豊線vol.1
若松駅旧駅舎、折尾〜中間間の4線区間、中間〜筑前垣生間の遠賀川橋りょうの切り替えられたばかりの現上り線と線路を剥がして間も無い旧上り線(クレーンが見えているので、トラス橋撤去か煉瓦橋脚破壊中?)、同橋りょう現上り線のSL走行シーン、飯塚駅の急行天草入線・補機連結(飯塚駅の無駄に(笑)長いホームがこの長大編成を見れば納得、飯塚で補機を付けてたとは知りませんでした)
というかほとんどのシーンだなこりゃ・・。

●筑豊線vol.2
筑前内野旧駅舎と跨線橋(一瞬映っている駅舎横にあったであろう池は、まだ石が残っています)、原田駅の転車台、筑前山家旧駅舎。

●筑豊線・上山田線
勝野・小竹両旧駅、ホッパーが残る臼井駅、★必見・嘉穂信号場タブレット引っかけシーン、新原トンネル、上山田駅

●日田彦山線
呼野駅スイッチバック(★必見・引き上げ線進入シーン)

●田川線
字幕は勾金〜田川伊田とあるが「勾金〜油須原」の間違い。重連+補機の長大編成走行シーンの最後に油須原線の切取部分が!

●室木線
全編ですかな(笑) 遠賀川駅出発シーンで、前方に今は撤去されいるトラス橋が見えている。

ほとんどのシーンであらかた場所が特定できました。
あと平山炭鉱入替専用の動画もありますが場所が特定できん・・。臼井駅近辺が見たかったなぁ。

ご覧になられてない方は是非!

今年の山トロ開催日

Category:廃線・未成線 コメント(2)
今年の上山田トロッコは

開催 10/26(日曜日)10:00〜
場所 福岡県嘉麻市熊ヶ畑

内容及び車両は去年同様とのことです。

ミジンコさんいつも情報ありがとうございます〜。


↓これは昨年の様子

真崎〜熊ケ畑間の「くつわいで踏切」

●2002年8月
まだ線路跡は手付かずで草で覆われています。

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●2004年10月
雪舟ロード建設が始まっています。

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●2005年2月
地均し程度でまだ進んでいません。機器もそのまま。

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●2005年5月
機器粉砕!盛土の両サイドには丁張りが設置されてます。

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●2006年7月
典型的な廃線跡遊歩道っぽくなってきました・・・。

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この後の画像は撮ってるはずなんですが見つかりませんでした。
えーっと、最後の写真と比べてもそんなに変わりません(笑)

気象光学現象

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廃線探索をしている時ふと空を見上げると、面白い気象現象をたまに見ることあります。
過去画像を掘り返してたら何点か見つけたのでUPしてみます。

●2002年12月/上山田線跡臼井〜大隈間
画像左に見えている光「幻日」というそうです。

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●2003年12月/上山田線跡臼井〜大隈間
前年と同じ時季だったので、冬に見られる現象なのかな?と思いました。

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●2005年4月/勝田線跡・志免付近
太陽を中心に楕円の虹のようなものがかかってました。外灯に隠れている部分が太陽。
ネットで調べると「外接ハロ」という現象のようです。名称の響きがなんか好き(笑)

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●2005年4月/勝田線跡・志免〜下宇美間
上の画像を撮った後、しばらく下宇美方面へ歩いて再び見上げると形が変わっていました。

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●2007年1月/上山田線・真崎駅跡
太陽に暈がかかっていて頂点に薄い虹、さらに上に逆さ虹が見えてました。
暈の頂点部分は「上部タンジェントアーク」逆さ虹は「環天頂アーク」というそうです。
間違ってたらスマソ。こちらも素敵なネーミングです。とても幻想的な空だったので、しばらくボーッと突っ立って見てました(笑)

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詳しいことはよくわかりませんが、こういった現象を見るのは大好きです。

遺構へ行こうに掲載していないものも含めた過去データを掘り返し、定点観察的に見てみるエントリー。今回は上山田線真崎駅跡。

●1999年10月/東川崎側より。まだ整備されていません。

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●2004年1月/熊ケ畑側より。雪舟ロード工事が始まっています。

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●2004年1月/上の2日後。雪が降りました。

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●2004年3月

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●2004年5月

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●2005年1月/線路敷はアスファルト舗装され、外柵が設置されてました。

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●2006年11月/なんと!ホームが半分の長さに・・orz

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●2007年1月/駅跡の敷地も再整備されました。

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3線跡を往く VII

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●宮前架道橋

中間から遠賀川橋りょうを渡り終えてすぐの架道橋。筑前垣生側のみですが、ここにも煉瓦橋台の一部が残っています。

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現在の架道橋は上下線と上下線の間の1本の3線分あるので、これが当時の3線跡と思われる方がいるかもしれないので再確認。これは遠賀川橋りょうも同じですが、奥から、
・2代目下り(現)
・開通時単線→初代下り→中線→2代目上り(線路無・遠賀川橋りょうの削られた煉瓦橋脚部分に続く)
・初代上り(側壁化している煉瓦橋台跡・遠賀川橋りょうの残された煉瓦橋脚部分に続く)
・3代目上り(現)
一番新しい3代目上り線以外が3線時代に使われていたものです。

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遠賀川橋りょうの煉瓦橋脚群と同じように、現上り線にひっついた状態で初代上り線の橋台跡が残っています。橋台は殆どコンクリートで覆われていますが、一部分だけ煉瓦が見えています。



3線跡を往く VI

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筑前垣生〜中間間から

■第2宮前架道橋(橋りょう)
筑前垣生駅と遠賀川橋りょうの間にある暗渠型のアーチ橋。ここは初期の複線煉瓦アーチと増線分の石積みアーチを見ることができる。

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アーチ部分はコンクリートで覆われている。幅は44cm位だったので煉瓦の巻厚は4枚と思われる。アーチ上部がどんな形であったかは想像出来ない。

中に入ってみるとスプリングラインに石積みがあり、下の側壁は煉瓦積みでポリクロミー装飾がしてあった。バカが落書きしているのは残念。

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さらに側壁の目地は山目地になっていて非常に目を引きます。

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↓煉瓦積みと石積みの境界。

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増線側は石積みアーチで要石が付けられています。

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長さは煉瓦積み部分が約9m40cm、石積み部分が約11m。通常ならば、単線を増線した場合、増線分の長さは短くなるはずなんですが、ここでは長くなっています。おそらく、遠賀川橋りょうの増線分が既存の複線部分よりも離れていたこと、また、この盛土上に底井野信号所があったからだと考えられます。

スプリングラインの石積み、側壁のポリクロミー、要石と装飾要素が多いアーチ橋です。何か意味があるアーチ橋なのかもしれませんね。筑豊本線ではこの手のアーチ橋は、私の知る限り非常に少ないです。全体的に勾配が小さく平坦な地に線路を通したからでしょうか。







弾薬庫引き込み線!? II

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コメントに情報があったので見てきました。

線路跡道路は福間から曲線を描いて住宅街を進んでいきますが、土地は造成されてて高低差があります。米軍写真を見ると西郷川の橋梁の福間側の線路跡は切取になってますが、ここも高低差があり、道も行き止まりになってました。

福間側からの突き当たり付近にあった構造物。用水路に架かっているものですが、傾斜が急だし引込線のものじゃないかも・・

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↓西郷川の福間側には橋台が残っていました!

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弾薬側の橋台は草が繁殖しすぎてよくわかりませんでした。橋脚の基礎もそれっぽく見える物はありますが、よくわかりませんでした。

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ここから先、米軍写真に写っている終点付近まで見てみましたが、遺構らしきものは見つけられませんでした。コメントにあった構造物はその先にありました。正面から見るとホームの形に見えますが、平面的には薄いし長さも短めなので田圃の側壁跡かもしれません。一応、弾薬庫まで行ってきました。よくもまぁこんな山奥にって感じですね・・。




海老津に炭鉱があったのを知ってますか?
数年前、昭和初期の地図を見ている時に海老津駅の南東、奥まったところに海老津炭鉱というのがあり、駅まで運炭線が延びているのを確認しました。その後、空中写真や地図で確認したら、運炭線跡はほぼ道路になっていることがわかりました。ネット上で地図を最大まで拡大してトレースしていると、運炭線の下を潜って集落に抜ける道があり、トンネルの記号が付いている所がありました。これは現地で確認せねば!・・それから年月が経ちましたが、ようやく探索してきました。

運炭線跡の道路は確かに車1台分くらいの幅の道路になっており、道なりに進むと海老津駅まで抜けました。とりあえず運炭線跡道路とわかる所を往復したのち、今回の目的のトンネルの記号が付いた場所へ行ってみることに。モバイル地図を頼りに徒歩で探索。するとその場所へ続く、車がやっと通れるような道を発見。早速、登ってみることに。すると目の前に現れたのは煉瓦アーチ!

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おぉ、レンガスキー感激ぃ!の瞬間でした。結構高い位置を運炭線跡道路が通っていて(大蔵線の尾倉橋梁状態)盛土部分が広いので、思ったよりも長さはありました。とりあえず外観をじっくり見ていると、巻いている部分が変じゃないか?近くで見てみると。

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ね、ねじりまんぽ!?
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いやいや、よく見ると斜めに並んでないし

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単純に長手方向にシフトさせて斜めに架かってる感じでした。この形状のアーチは初めて見ました。珍しいものなんでしょうか?もしそうならば、ぜひ専門家に調査していただきたいですね。

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このアーチ橋、微妙に角度の付いた「くの字型」になっており、「斜め部分の煉瓦」「直線部分の鉱滓煉瓦」の構造になってました。海老津炭鉱の運炭線はエンドレスだったらしく、建設当時は煉瓦部分のみの単線で、あとからエンドレス形式にした時に鉱滓煉瓦部分を増設したのではないか?と推測したんですが・・どうなんでしょうねぇ?

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↓反対側はとくに目立った意匠もない平凡なものでした。

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こっちから見ると奥の煉瓦部分が斜めになっているのがわかります。

↓鉱滓煉瓦部分の炭鉱側には穴が空いている箇所がありました。建設時の足場の跡でしょうか?

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ここのエンドレスの写真というのは、どこかに残っているんでしょうかねぇ?
ぜひとも見てみたいです。

買いました

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これ買いました。

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「北九州の近代化遺産」を編集者殿(庵田さん)から飲み会の席で(笑)直接手渡し購入したのが一昨年。福岡が出て、ついに筑豊ですか。北九州・福岡では執筆・編集といろいろ大変だったでしょうが、今回もちゃっかり執筆されてますね!福岡編では執筆のお誘いがあったんですが、私の文章力じゃ・・とてもとても(汗) 妊婦もいましたしね。その時は力になれずスマソでした。また飲みましょう(笑)

待望の「筑豊の近代化遺産」
現地で見たもの、存在を知ってるものが多かったですが、まだまだ知らないものもありました。内容的には項目によって濃淡あるなぁと感じつつも、読みごたえがある一冊だと思いました。欲を言えば、巻末の一覧に載っているもの以外にも炭鉱系の遺構はありますし、鉄道遺構ももう少し・・。近代化遺産対象は、この年代くらいまでに作られたものっていう線引きや対象物の規模、所有者の問題等いろいろあるんでしょうけど。

私は炭鉱をリアルでしらない世代ですが、おっちー婆さんが住友忠隈の社宅払い下げ炭鉱住宅に住んでいたため、炭鉱全盛時の活気は無いものの1970年代以降の街並み・雰囲気は感じてました。ボタ山に登るのは夏・冬休みの恒例行事でした(笑) 八木山BPから庄内へ抜ける道が出来てから、炭住がかなり姿を消しました。私がまだ小さかった頃、今は亡きおっちー親父が「ここは偉い人が住んじょったんぞぉ(どんな人だよって思ってたけど)」と言っていた社宅も姿を消しました。おっちー婆さんや近所のお年寄り達が集っていたお店への生活道路も分断されてしまいました。今頃どうしてるんだろう?たまにふっと思うことがあります。住んでいた同炭鉱住宅は、まだおっちー婆さんが所有しているので健在ですが、いつ壊されるやら・・。改築に改築を重ね原形を留めてないので、あまり価値は無いかもしれません(笑) 飯塚駅は現駅舎に改築済みでしたが、多くの側線、留置してる貨車・客車、貨物積込ホーム、忠隈への貨物支線跡、手動式の踏切・・・なんか色々思い出しちゃいましたね。

線路付替跡を往く V

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新入〜直方間から2ヶ所UP。
筑豊本線初期のこの区間は今のルートに比べ、ホンの少し西側を通っていたようです。

新入駅から直方へ向かってすぐの所にある橋梁跡。複線分の煉瓦橋台が残っています。元下り線の橋台は改築されつつも現在もしっかり現上り線を支えています。奥は直方気動車区があった場所で大変広く、長い暗渠が続いている。

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↓新入側の橋台跡。桁架替えのためか、嵩上げのためか?1960年3月に改築されている。

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↓直方側の橋台跡

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上の橋台跡から少し直方寄り、旧直方気動車区の付け根あたりに残る複線煉瓦橋台跡。ここは本線から少し西側に離れてます。この橋台の前後(画像じゃ左右)は、現在は事業所や家屋が立ち並んでいます。
昭和50年代の記憶ですが・・ここの直方側には側線があり貨車区みたいなのがありませんでしたっけ?

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↓新入側の橋台跡

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↓直方側の橋台跡

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線路付替跡を往く IV

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若宮川橋りょうの続き。

筑前植木側から新入方面を見たところ。立っている位置に旧線路があったと思われる。両岸とも橋台の跡、橋脚の跡は見つからなかった。初代は100フィート×1+40フィート×7の橋梁だったそうな。100フィートは流路、残りは河川敷部分で橋脚が7本あったんでしょうね。

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↓これは新入側から

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この位置から新入方面を見ると煉瓦橋台が残る場所が見えます。

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画像中央下にあるのが煉瓦橋台の対面側の橋台跡。その上には線路敷が続いています。

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前回のエントリーで登場したこの橋台。よく見たら中央から下だけが斜めになってました。



3線跡を往く V

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先日のエントリーに出てきた「鉄道省鉄道統計資料」には折尾〜直方間の線路増設に関する資料が載っていました。

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大正8年度版の中の改良工事工程表より。これによると増設する区間が9M57C〜14M39C、7M9C〜9M57Cとあります。
じゃ、具体的にどの辺を線路増設してたのか、表にしてみました。

mile.gif

折尾〜中間の4線区間、中間〜筑前植木の3線区間をカバーしています。この時点では両区間とも複線化していたので、それぞれの増線分の工事のことと考えられます。気になるのが、筑前植木から新入(貨)の手前まで工事区間に含まれている点。JR九州の「鉄輪の轟き」P85に掲載されている「大正14年国有鉄道線路略図/鉄道省」を見ると、筑前植木〜直方間が3線になっています。前のエントリーで書いたようにここも3線区間だったのは間違いないのでは?と思いますが・・・どうなんでしょうねぇ?


3線跡を往く IV

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中間〜筑前植木間は、いつ頃3線になったんでしょうか?
廃線本を読めば答えは出てるんですが、自分で確認してしてみたいと思って、ちょっと検索・・。

で、見つけたのが「鉄道省鉄道統計資料」「鉄道院鉄道統計資料」「鉄道院統計図表」など古書。どれも著作権保護期間満了とのことなのでちょいと画像補正して掲載します。

左/1922(T11) 右/1923(T12) 〜鉄道省鉄道統計資料 大正9−13年度/鉄道省〜より

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3線化したのは1923(T12)というのがわかる。じゃ、日にちは?
同じく鉄道省鉄道統計資料内の線路増減表から

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中間〜筑前植木間が複線3M(哩・マイル)75C(鎖・チェーン)から3線3M75Cに。1923(T12)年7月1日とあります。これで解決&納得!念のため大事典で同区間の駅間距離を見てみたら、3M75Cでした。さらに遠賀川橋りょうの増線分を調べたら、同じ年に架けられてました。

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左のトラス橋が増設線。旧線の煉瓦橋脚は間近で見ると圧巻です。
この鉄橋、ある映画のワンシーンに出て来たらしい。しかも下り線なのに上り方向に列車が進んでるとか(笑)

線路付替跡を往く III

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先日の犬鳴川の橋梁(若宮川橋りょう)の架替えですが、米軍空中写真やその後の写真を見てみると、1948(S23)年の時点では煉瓦橋台があったルートでした。1961(S36)年の写真を見ると、現在のルートに付替えられています。

↓これは1974(S49)年のもの
S49.gif

で、さらに調べてたら、筑前植木〜直方間も3線疑惑(笑)があったようなので、もうちょっと調べてみます〜。

線路付替跡を往く II

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今日は筑前植木〜新入間の線路付替跡です。

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犬鳴川の橋梁を新入側へ渡ってすぐの所にあります。ここの煉瓦橋台は植木側しか残っていません。

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複線分の立派な煉瓦橋台。上下線間の不自然な目地はなく綺麗な並び。
と思いきや・・

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旧下り線部分にカントが付いてますー。前後の線路跡は直線なのに何故?

ちなみに橋台前の道路は鞍手軌道(直方〜福丸)跡。1914年、福丸〜龍徳間開通、1915年に直方まで伸延されています。ということは、鞍手軌道敷設時に建設された橋台なのか?と思いました。で、さらに犬鳴川の橋梁を調べてみると(土木学会附属図書館)、筑豊興業鉄道開業時の単線橋梁・複線時の橋梁開通後、1912年に付替上下線と思われる橋梁が開通しています。ということは、鞍手軌道開通前からこの煉瓦橋台は存在したのか?専用軌道じゃなくて、まず道路があってその上に線路を敷いたのか・・なんせ古いもんでよくわからん(汗)

線路付替跡を往く I

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筑豊本線には開業時と現在とで線路の位置が変わっている箇所があります。
主に橋梁架替えや構内配線の変更などが考えられます。そこには今も煉瓦構造物が残っています。

まずは、新入〜直方間から。
ここは、1891年(M24.8.30)に筑豊興業鉄道により若松〜直方間が新設されたときから存在する歴史ある区間。ここは開業当時は中間〜直方間だった。その後、1893年(M26.4.28)植木シグナル停車場を設置。同年(M26.12.20)、底井野〜植木間複線化時に一般駅「植木」開業(のちに九州鉄道と合併し同名駅があったため1897年(M30.10.1)「筑前植木」になったらしい)。1894年(M27.12.21)、植木〜直方間複線化。1989年(H1.3.11)に新入駅が開業し、現在に至る。ちなみに1911年(M44.2.22)〜1912年(M45.3.20)の約1年だけ、新入仮信号所というなんとも中途半端な信号所が存在していた(何故、仮なんだ?)。位置は筑前植木から1哩とあるので、現在の新入駅とほぼ同位置か?

さて、本題。
新入駅のすぐそばにある遺構から。

●新入橋りょう

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煉瓦橋台の真上は新入駅。上下線の間に使われていない旧下り線の遺構がある。
現下り線の向うにも数線分、桁があった感じがある。新入駅が出来る前は確か側線があったような記憶が。
パラペット前のコンクリ改修は1960年と結構古い。

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↑植木側

↓新入側

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よく見るとなんかおかしくないですか? 真ん中下の方の煉瓦の目地が。

shin_b_3.jpg

積み方おかしいし(笑) しかもこれは下駄っ歯の跡?
上の積み方見ても特に変じゃないし・・。
単線下駄っ歯仕様で作ってたものを途中から複線仕様に積み方を変えたんでしょうかねぇ?

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